2018年6月、作家の広岡威吹先生に憧れてカーフェリーに乗った話
【1.前説】
前回、京都旅行で初めてカーフェリーに乗ったと記載したのですが、よくよく考えると記憶におかしい事がありました。
写真、少なすぎない・・・? 少なくとも、初めて宮崎カーフェリーに乗った時にはバシャバシャ写真を撮りまくった記憶があります。
そんな訳で、GoogleフォトとONEDriveを漁って過去の写真を発掘したら、ありましたありました。
私が初めて宮崎カーフェリーに乗って関西に向かったのは、なんと以前に書いた日記で書いた1年前の2018年6月でした。私の記憶力って一体・・・。
前回の日記で情念をぶつけて自分自身で目頭を熱くした物ですが、あの涙はなんだと自分に言いたくなります。が、作家は嘘をつくのが商売と良く申します。それじゃあワナビはせめて自分を騙す事から始めないといけません。
少なくとも前回の日記で告白した関西わけても京都への屈折した思いと、初めて自発的な意思で京都を訪れた事、そしてトルコ史やイスラームの学習への思いは嘘ではありません。
まあ、将来私が作家になる未来があって、『潜狸ぐすく全集』とか発売されることがあったら・・・いや、それかなり『まどか★マギカ』のほむらちゃん並みに何周かループしたりGQuuuuuuX並みのパラレルワールドでも成立し得ない気がするんですが・・・そんときゃあ『自伝』として綺麗に書き直します!
当面は今いる数少ないブログの読者さんを飽きさせない事や、ブログの整合性に拘って筆が止まる事だけは避けたい、そんな思いで今日もポメラのキーボードを打鍵しています。
【2.広岡威吹先生とはどんな方か】
いきなりマニアックな作家さんを出してきました。どなたかというとGA文庫で「魔王子グレイの勇者生活(チートライフ)」をお出しされている方で、とにかく新人賞の落選数が多いというご自身の触書のラノベ作家です。100本は新人賞に投稿し続けてやっとGA文庫で奨励賞を受賞し、本作が出版されました。
ここから順風満帆な作家生活が続けば良かったのですが、「魔王子グレイの勇者生活(チートライフ)」は3巻で完結し、そこから広岡先生の続刊は出ておらず、ブログの更新も2018年を最後にストップし、Google先生で検索しても杳として広岡先生の行方は知れません。
惜しむ事はいくらでも出来ますが、私は広岡先生の書かれたブログを読みはしましたが、作品自体は読んだ事はありません。ただ、広岡先生のブログに書かれた投稿実績や創作に関するお考えを読んで、この人を舐めてはいけない、と思っています。
100回落選だろうが新人賞に応募し続けてきた広岡先生と私は月とスッポンです。だから、広岡先生に敬意を抱いている心算でこの先を書いている事を予めお断りしておきます。
【3.広岡先生とワナビである私の違い】
単純化すれば、広岡先生には物語を書き上げられるだけの実力があった、投稿してどんなに落選しても1作ごとにご自身に課題を課し持ちキャラの幅を広げられた、などが挙げられます。
私は『私』という問題児を更生させるための不足している実力や、自分自身や自分の作る物語を信じる『強度』が決定的に不足している事を強く感じています。
20年を越えた社畜生活を振り返ってみると、『見えない物を信じる』事が出来なかった事を感じています。自分自身が『勉強』や『スキルアップ』でより優れた人間になれる事をどこかで決定的に信じていませんでした。私には縁のない話ですが、筋トレなら、筋肉が付いたり、より重いダンベルを持ち上げたり、走るタイムを短縮できるなどの効果があります。ところが、『仕事』という物は年齢やキャリアに応じた成果を求められます。絶対評価ではなく、相対評価であり、年齢やキャリアに応じさらに周囲との比較による偏差値のような物で評価が決められます。
ここが辛い所です。
英語の勉強は社会人になっても行いましたし、電話対応で英語の問い合わせを受電した事もあります。
プライベートでは有楽町で見知らぬ外国人に英語で羽田空港まで行くための乗り換えを聞かれた時に路線図を元に拙い英語でどの駅で乗り換えてモノレールで羽田に行く道筋を説明した事もありました。NHKのBSの『きょうの世界』改め『国際報道』で米国の要人や市民のインタビューや演説を聴いても、字幕があれば話している内容の単語の幾つかが理解できます。だからといって英語の勉強を幾らしても私には『文法』を理解する力も『発音』を理解する力がない事は明白でありました。最早英語学習は諦めています。私のTOEICの点数はとても公表できた物ではありません。
ITの資格試験に幾ら合格しても、仕事が楽になった、出来る仕事が高度になったと自覚した瞬間はごく僅かです。
もちろん、して良かったとは思います。ただ、実務と資格が結びつく事はごく僅かでした。SES2社目も傾き始めた時に全社に号令が掛けられた定期昇給と引き換えに取るように言われた国家資格は合格できませんでした。プログラミングに関する問題が弱点であり、職業適性が致命的に欠けている事を思い知りました。
学生時代の私を振り返ってみると、音楽や体育や英語や数学など、とにかく『ルールに従って物事を考えたり動作する』事が極度に苦手でした。音楽は楽譜を読み、指先やブレスを正確にして楽器を演奏する事を求められます。体育はスポーツのルールを理解し、その中で身体を最適に動作をさせなければいけません。英語は文法を理解し、日本語とは語順の異なる言語を操る事が求められます。数学は言わずもがな、方程式を解き、更に応用的に考えられる事が求められます。私はこれらの一切が苦手です。
何かの失言や読者さんの機嫌を損ねた時に『潜狸ぐすくは境界知能である』とデジタルとトゥーとして炎上されうる事を書いている自覚はあります。ただ、自己弁護するならば、私は大学を卒業するに当たり必要な単位数の1.5倍をきっちり4年間で取得して卒業しており、大学で取れる国家資格も持っています。また、中学の時は40人以上いたクラス全員で受けた漢字検定2級に合格したのは私を含めてたった2名でした。
漢字検定はコールセンター勤務で思わぬ時に役に立ちます。難読の氏名や地名を理解する時はスムーズに理解できるのです。中でも沖縄県からの電話で地元民と思しき入電者が『当』の旧字体である『當』を『富』の字と間違えており、私は文字を言い当てる事が出来ました。沖縄にある『石敢當(いしがんとう/せきかんとう)』という宗教的な石碑を覚えていたからこそ出来た芸当でした。
私という人間は極度に偏屈な奴で、思考の幅に柔軟性がないのです。こんな自分が社会生活を営めている事は一つの奇跡だと自覚しています。
しかしながら、物語もまた一つの『決められたルール』があります。
それは起承転結とか三幕構成とかハリウッド式脚本術であったり、人によって技法は様々ですが、最低限『ヤマ』と『オチ』は必要であり、そこで活躍する魅力的なキャラクターが必要なのです。
私自身が物語を書く適性を欠いている可能性が極めて高いのですが、一度見た夢は醒めることなく、私自身の精神の奥に熾火のようにくすぶり続けており、広岡先生と自分を比べてしまいます。
仮に私が夢見た職業がプロ野球選手など年齢によって手遅れだと断言できる物ならば諦めも付いたでしょうが、文化系の趣味は体育会系に比べて加齢による衰えは、認知症を発症したり、指先が動かなくなるような病気や事故に直面しなければ、夢を諦めさせてくれないのです。
ただ、私は挑戦者であり続けた広岡威吹先生に比べて、進歩を怠ったり、見るべき夢を明示化できなかった想像力に欠ける人間の一人と結論付けざるを得ません。
【4.取材とファン活動としての広岡先生のカーフェリー紀行】
忸怩たる思いを記載しましたが、広岡先生の事がそこまで突き刺さったのは、ある出来事が切っ掛けでした。
広岡先生のブログで、関西から東京のGA文庫の刊行元であるソフトバンク・クリエイティブ社のパーティに参加するためにわざわざ徳島まで行って東九フェリーに乗って上京した事が記されていました。
理由は、東京に行くのに新幹線も夜行バスも使い、新しい方法で行きたかったと記されていましたが、前後の記事を読めばそれ以外の理由があることは容易に推察できました。
オーシャン東九フェリー徳島発東京行き乗船感想(東京日記1) : 広岡威吹の作家ブログ
ちょうど艦これをプレイされていたり、GA文庫のトップ作家にして『のうりん!』や『りゅうおうのおしごと!』などアニメ化作品を連発された白鳥士郎先生が帆船で海戦をする作品を書いた事などがおそらく広岡先生に影響を与えていたようです。
広岡先生のカーフェリー紀行は単なる気晴らしではなく、『取材』でありファン活動も兼ねていると言うべき物でした。興味のある方は記事を読んでみて頂けますと幸いです。
そこに撮影された写真の分量は、文章のソフトさとは裏腹に細部まで捉えようとし、乗船体験をご自分の作品に生かそうとする意気込みが感じられるはずです。
オーシャン東九フェリー乗船お風呂感想(東京日記4) : 広岡威吹の作家ブログ
※1番目の日記で大体の乗船に関するプロセスはしっかり撮影されていますが、4番目の日記では船内の様子がしっかりと撮影されています。
【5.私と艦船】
広岡先生のブログを読んだ後で私は激しい後悔の念に駆られました。
私は、軍艦マニアです。
新型の艦艇でも写真を一目で見れば艦橋や上部構造物のサイズから素材が鋼かアルミか見抜く事ができます。最も目が肥えていた時期では、詳細を知らない艦艇でも写真や図面からおおよそのトン数を推測する程度は出来ました。もちろん、プロの海上自衛官や船乗りや造船工学を専攻した『海事関係者』の方がもっと良い『目』をお持ちだとは思うのですが・・・
とにかくアマチュアの意地として『好き』は貫きました。
宮崎にいた時も県内やお隣の鹿児島県の港に護衛艦でもミサイル艇でも掃海艇でも一般公開すれば、矢も楯も構わず時には自動車を走らせ、時には電車で九州を横断しました。そうして港では艦艇を前にひたすら目に焼き付けた物でした。
日南市の油津漁港で掃海艇群の訓練のために掃海艇が集まった時は、港を見渡せる丘の上から写真を撮影していると自衛隊OBだという壮年の男性から声を掛けられました。アメリカに留学して訓練した話などを伺った事もあります。さすがにその時は本物の自衛隊OBと話す時に何を聞けば良いのか、そして英語もろくに出来ないデブで筋力もない自分にコンプレックスを感じ、向こうが喋るに任せ別かれましたがーー。もう会う機会もないでしょうが、あの頃に時計の針を戻せたら、とにかく色々話を聞き、連絡先を交換できたら良かったと思いました。
現役の自衛官の方をする機会があるのは、主に基地や艦艇の公開イベントです。
自衛隊のイベントに行って歓迎されても、せいぜい自衛隊に理解のある『納税者』もしくは『有権者』扱いです。
好奇心のままに技術的な質問をしても『機密事項だから言えません』と言われます。一般的な船乗りの当直勤務(ワッチ)についても私のシフト勤務経験から大変ですよね、と言っても『大したことじゃありません』と流されます。前者は仕方がありませんし、後者はそりゃ依りにもよって同じ艦艇の仲間達が乗っている中で任務の愚痴を言うことも出来ません。艦艇の公開は自衛隊の新しいメンバーを募るためのイベントでもあるからです。彼らはけして任務の辛さを口に出すことはありません。ただ、掃海艇で錘を持ち上げて体力を誇ってくれたり、今は引退したみうら型輸送艦の3インチ砲の説明をしてくださった方はOTOメララの自動装填の76ミリ砲よりも手動装填の砲の砲がやりがいがあると誇らしげに語ってくださいました。
自衛官にとっては訓練によって鍛えられた『肉体』や『強さ』が『誇り』の一つであり、それにより有事への『安心感』を与えられる事がイベントの目的の一つでもあります。
また、それが自分の肉体に対して老いを感じていない若者に対してそれがどれだけ刺激になり、志願者を募る事が出来るのか、広報イベントは感じさせる物になっています。
早々にスポーツへの見切りを付けた私はその憧れを理解しても、そこから燃えたぎるような情熱を受け止められた期間は事はごく僅かです。
せめて敬意を払いながらも何とか話を伺いたいとは思っていますが、根がコミュ障なので自衛官の方からお話を伺いのにはそこそこ苦労しています。
当たり前ですが、私は部外者なのです。
それでも、好きな『艦船』もしくはそこから学んだメカの機能は自作に登場させたい物です。
しかし、私が『艦船』の中で内部をしっかり見たのは、殆どが展示品となった『死んだ船』でした。横須賀にある戦艦三笠、稲毛海岸にかつてあった巡視船こじま、今は亡き船の科学館に展示された羊蹄丸や砕氷船宗谷、横浜の氷川丸ーー。どれも立派な船歴を持ちますが、私が訪れた時には自力航行はできず、ただ展示品としてそこに存在するだけのフネブネでした。
軍艦マニアの癖に私は『生きている艦船』に乗り込み、海上を航行した経験が殆どないのです。それを広岡先生はカーフェリーといえど取材してのけました。また、なろう作家の『転生吸血鬼さんはお昼寝がしたい』のちょきんぎょ。先生は船舶の機関士です。
毎月艦船雑誌を買い、古本屋でバックナンバーを求め、プラモを作っただけの自分は完全に『消費者』でした。物語の『生産者』になるためには、今までの殻を破るしかありません。
せめて一度カーフェリーに乗ろう。そうすれば、軍艦マニアとして何か視野が広がるかも知れません。その時の私には、関西に行きたい理由が一つありました。その行動を彩るためには、カーフェリーが相応しい。私は広岡先生の『読者』ではなく『観客』に過ぎなかったけれど、それが広岡先生のブログを読んだなりの自分自身への向き合い方でした。
【6.出航、宮崎! 航路は神戸!】
宮崎から出ているカーフェリーは神戸に向かう1万2千トンくらいの船でした。


総トン数と基準排水量の差異はあれど、空母龍驤や妙高型巡洋艦ほどのサイズの船であります。外洋を航行するに足る排水量を誇るだけあり、宮崎県の東に広がる日向灘へ乗り出し、四国の南の沖合の太平洋を越え、紀伊水道を通過して神戸三宮の港に一晩で到着するのです。波穏やかな瀬戸内海を通らないで真っ直ぐに外洋を航行するのは、地方のカーフェリーといえども1万トンを越える堂々たるサイズを感じさせられます。

乗船開始は午後7時でした。高い壁のような船体の側面に横付けされたエスカレーター付きのタラップで乗り込んで、2等船室に荷物を放った物でした。


乗り込んで気になったのが、意外と旅慣れた方が多いという事でした。私はバイキング形式で食べ放題の夕食を選んだのですが、多くの旅人がより安価な港近くのイオンモールで売っているお弁当を食べていた事を覚えています。
これが船旅初心者とベテランの違いか…! でもバイキング楽しみたいし、安いお弁当を買っても量が足りなくてもお腹が減ってもな―、と思って結局宮崎カーフェリーに乗る時はいつも船内の料理を食べていた記憶があります。
【8.海から手荒い歓迎を受ける】
フェリーが宮崎港を離れる時は、甲板にいたと思います。不思議な感覚でした。
飛行機にも乗らず、生身の身体が潮風を受け、海上を水平方向に移動しています。海岸沿いの宮崎の主な建造物のイオンモール宮崎も、そこから自動車で10分以上はかかった宮崎シーガイアも海上から見れば、一目で見渡せます。海上から見ると陸地は道路も塀もなく、ただ同じ大地の上にあるのでした。
徐々に遠ざかる陸地の不自由さと、それを見渡せる船舶という異質な存在の上にいる事は徐々に何かを感じさせました。
ただ、センチメンタルになっている猶予は大自然は与えてくれませんでした。宮崎港の突堤を出た辺りで乗り心地が急激に変化します。

とにかく揺れるのです。乗船した6月という季節は梅雨時以外にもう一つの気象学上の特徴を持ちます。日本に上陸こそしませんが、太平洋の南のフィリピン沖で台風が発生するのです。
遠い外国の話ですが、同じ太平洋です。海は繋がっていました。
早速軽い船酔いに見舞われます。船員さんですら倒れないように両手で手すりを摑んでいる状態です。
ところが、この状態で飯を食えというのです。食堂は出港直後に開放されますが、早くも20時頃に閉鎖されてしまうのです。食べても戻す可能性すらあったのですが、これが船を経験するという事です。飯はうまかったです。バイキングのメニューを制覇しました。が、船酔いが消えるわけではありません。しかしこの程度戦時中に腹を空かせ、艦内の食料を銀蠅(ネコババ)していた水兵さん達に比べれば贅沢な悩みです。従軍体験記や阿川弘之先生の『軍艦長門の生涯』を読んでいた記憶を呼び起こし自分を奮い立たせました。
食後にお風呂に入り、トラックのドライバーに比べて自分の身体のたるみぶりを実感しつつ、風呂場に設けられた窓から水滴越しに裸眼で見る真っ暗な夜の海の深さに感じ入った物でした。
風呂上がりに船酔い対策を兼ねて甲板に上がり、潮風に当たりました。夜の海は四方を見渡しても何もなく、たまにすれ違う船舶の灯りがある程度でした。
海上はコンクリートジャングルの東京などの都市部や、住宅や畑や山が立ち並び、休日は車の渋滞に悩まされる宮崎とは完全に違う『異界』でした。潮風が常に吹き付け、普段の生活ではけして味わえない空気を感じられました。
夜の暗い海と、カーフェリーの灯り。そしてディーゼルエンジンの煙突からは時々火の粉が散るのと、視界いっぱいの夜空と夜の海が全てでした。

印象に残ったのは、カーフェリーの航行音でした。
舳先が水を切り、2つのスクリューがバシャバシャと海水を回転させて船尾の底に水を打ち付け船内に木霊するゴンゴンゴン・・・という音。ディーゼルエンジンのドッドッドッ・・・という振動音。

複合的な音は、まるで永野護先生が『ファイブスター物語』でモーターヘッドやGTMを動かす時のコマのように様々な音に満ちあふれていました。
いつまでも味わっていたい物ですが、船酔いや、煙突を観察した時に空気よりも比重の重い煤煙が下に溜まってむせた事もあり、21時にはベットに入りました。
2等寝台は相部屋ですが、2段ベッドで、乗客の少なさから、上の段や隣のパーティションに乗客はいませんでした。ハンモックで寝た旧海軍の軍人や、3段ベッドで寝た初期の海上自衛官よりも快適な環境のはずです。戦時中の海防艦の乗組員は夜間の敵の襲来に備えて靴を履いたまま寝たそうですが、とんでもなく大変だったろうな、とは今にして思います。
ただ、艦船が海上を航行する基本である『波』や『揺れ』が私を襲います。
船が前後方向に揺れるピッチング、左右方向に揺れるローリング。そして、船体が波間に落ち込んだ時に起きるサギング現象では下向きに引き込まれるような感覚や、船体が波に乗り上げたホギング現象で浮き上がる様は中々の物でしたが、ベッドから落ちるような事はありませんでした。
※艦船の受ける波や海上の負荷については森恒英先生の著作で図解付きで分かり易く解説されています。
様々な揺れと客室においても聞こえるディーゼルエンジンの振動と音は・・・メカマニアとしては学んだ事を体感できてとても楽しかったのですが、一般人にはあまりお勧めできる物ではありませんでした。
それでも、睡眠導入剤や耳栓のおかげもあってか、いつしか私は寝ていました。
翌朝、船は内海の紀伊水道に入ったせいか、穏やかな海を航行していました。
時計を見ると時刻はまだ5時半でしたが、とにかく眩しかった事を覚えています。夏至が近い季節の上、海上には山もビルもなく、日の出と共に辺りはすっかり明るくなり、海面は陽光を反射するのです。お陰で6時の船内放送を待つこともなく起床でき、定刻通りに下船できました。こうして神戸フェリーターミナルから三宮駅へ向かうバスへと向かったのでありました。
【9.一区切りの後書き~その1】
三宮駅からどこへ向かったのかは、機会を見つけて書くことにします。確実に書くとは言えませんし、それが面白いかは別なので、総没にする可能性もあります。
ただ、『艦船』を見る目が少し変わった気がします。やはり資料を幾ら読んでも体験しなければ分からない事がありますし、かと言って事前知識がなければ、この船旅を思いつく事も楽しむことは出来なかったでしょう。
後はこの思い出の幾許かが私が小説を書く時に生かされれば問題はありませんが、撮った写真も広岡先生のブログに比べると今一つ船内の風景を伝えられる物ではなく、メカ一つ見る目に関しても、アマチュアのファンはプロ作家に及んでいないと7年前に自分の撮った写真を見て反省させられます。
ただ、生きている間に読者を見る事ができないヘンリー・ダーガーのような行為であったしても、何とか形にしたい物です。
【10.一区切りの後書き2】
ちなみに、私にフェリーの乗船を決意させた広岡先生はその後18年1月31日を最後にブログの更新も途絶えていますが、私は悲観していません。世の中にこれだけなろうやカクヨムはじめ小説を発表する媒体はあります。
同時にソシャゲも数限りなく出ています。そんなに有名じゃないソシャゲのライターという仕事だってあるでしょう。
私が一時期追っていた作家の枯野瑛先生は匿名で『ゴシックは魔法乙女』というスマホ向けシューティングゲームのシナリオを手がけられていたことをインターネットラジオ『そこあに』かどこかで聴いた記憶があります。
なら、一度プロ作家をした方が名前を伏せてどこかのゲーム会社でシナリオを書いている事だってありえるはずです。世の中にはこれだけソシャゲがあふれているのです。ましてや、広岡先生は純文学に別名義で投稿もされていたのです。他の名義でのお仕事をされている可能性もあるでしょう。
ひとまず、『中の人』が広岡威吹先生として活動を再開されたりした時は私も何か発表できるレベルの物を書けていれば良いのですが。
私がプロ作家になって、どこかの出版パーティで広岡先生に会える未来が訪れる可能性はかなり低いです。
ただ、広岡先生が万が一エゴサしてこの記事を読むような事があれば、それはそれで面白いかもしれません。
そんな事を考えながら、私は今日も洗練されない文章をポメラに打ち続ける事でしょう。
2019年6月、社会人になり関西への憧れを失った後に、京都旅行をした話
【0.前説】
タイトルに書きましたように私の関西への屈折した思いを記しています。
私がXで相互フォローになっている方に何人か関西の方もおり、旧友にもお父様が大阪出身だという方がいるので書き辛いですが、不快感を感じられたらブラウザをバックさせるかして見なかった事にしていただけますと幸いです。
半分自業自得な側面もあるので、『お前が悪いんだよ』みたいな反応を受けても仕方がありません。
堪忍しておくれやす~。いけずな方にはぶぶ漬けでもお勧めしますえ~。
【1.関西への憧れを抱いていた頃】
学生時代、東京都民の私は関西とりわけ京都に憧れを抱いていました。
理由は幾つかあります。
一つは、現実逃避でした。東京という町は人工的な町だと言われていたので、じゃあ『関東』に対比される『関西』はおそらく伝統的な文化が息づく町に違いない、という所です。関西弁という方言を維持している『伝統性』。大阪の人が全国で一番道を歩くスピードが速いという『効率性』。
憧れていた当時、私が関西に訪れた記憶は、中学生の時の修学旅行で京都を訪れた時の一回だけでした。大きな空襲も免れ、原爆の投下目標の候補になりながらも、占領政策を考えて候補から外された町には、古い寺社仏閣などの建築文化財があり、歴史ファンとしては堪らなく魅力的な町でした。
また、大阪城や楠木正成の赤坂城や千早城などの歴史のターニングポイントとなった合戦場も幾つもあり、大阪府もとても魅力的な土地でありました。
【2.長じてさらに魅力を感じる】
さて、別方面からも私は京都に魅力を感じていました。
とにかく京都の大学出身者でライトノベル、一般向けエンタメと活躍している作家が多いのです。こんなに魅力的な町で作家を出しているのですから、住んでいる方は皆とてつもない才能を秘めているに違いないと思った物です。
以下は2011年に作ったリストです。
▼京都大学
森見登美彦(2003年)
万城目学(2006年)
森田季節(2008年)
水瀬さんご(2010年)
▼立命館大学
西尾維新(2002年)
▼京都府立大学
日向まさみち(2004年)
※敬称略。括弧内はデビュー年です。
私のエンタメへの関心や他者への理解も変わってきています。小説家に限らず視野を広げれば、今ではもっと京都の大学を卒業したクリエイターを発掘する事ができるでしょう。
一方で、森見登美彦先生は実際の出身地は奈良県です。必ずしも京都に生まれ育った方が京大に入るわけではなく、近畿地方や西日本出身者が目指す最高学府が京大であった、というべきでしょう。
ただ、多くの企業の会社情報を見ると、西日本で企業が集中するのは大阪である事が分かります。関西の受験生が進学先を選ぶならば京都大学は別として、就活の面では企業へ足を運ぶ距離感としては、大阪にある大学の方が楽ではないかと推測されます。
その上でも、偏差値が高い京大以外の京都の大学を選ぶのはなにがしかの理由があるはずです。それは単に通学の面であったり、近畿地方人でも兵庫と大阪と京都では県民性が違うという所が挙げられるかもしれません。
この関心は今取り上げた作家をはじめ京都人への理解であったり、関西圏への進学を考える西日本の中高生やその保護者向けに一定の意味がありそうですが、自分語りの記事ですので、ひとまず次の章に移らせていただきます。
【3.関西を徐々に「怖い」と感じるようになっていった時】
現実逃避と憧れの地であった京都は、徐々に現実の世界に塗り替えられていく事になります。
社会人になってからSESで夜勤とシフト勤務のデータセンター勤務が続いていたのですが、一度はデータセンター勤務を卒業して、常日勤のポジションで働く事が可能になりました。
出向先のプロパーの上司の一人が関西人でした。
バリバリの関西弁。しかも早口。マナーや仕事の成果には厳しい方でした。ついて行けなかった私の社会人スキルの低さは反省すべき点があります。
しかし、あれから15年近くの時が経ちますが、あの頃の若い肉体に15年の経験を加えた今の精神を宿らせても、この出向先で満足されるような仕事が出来るか自信はありません。
とはいえ、ここで私は関西への決定的な苦手意識を持つまでには至らず、SESの仕事から卒業するために宮崎に向かいました。
【4.宮崎で都会人に警戒心を抱くようになる】
宮崎での私の業務はIT系のコールセンターでした。
コミュ障なのにコールセンターとは、今考えても無謀な事をしでかした物だな、と思うのですが、一定のテクニックさえ身につければ誰でも出来ます。
しかしーー。それでも関西の顧客からの電話は中々きつい物でした。
レベルの高いサービスを求めてきます。理不尽な物も多いですが、一方で彼らは自分たちの『権利』をきちんと主張します。
プレッシャーと前職の上司が重なり、ちょっとしたフラッシュバックに見舞われます。
その時の私には、『関西』は最早憧れる場所ではなく、対応に苦労させられる無数の顧客が住まう警戒すべき地域と認識されていきました。
ただ、公平を期すために『関西』以外の地域も記載しましょう。『東京』も最早私にとっては『敵地』でした。
宮崎から実家のある多摩地区に帰る道すがら、私はまたもフラッシュバックに見舞われました。
東京駅や山手線沿線には、私がコールセンターで対応した顧客の会社がひしめいていました。もちろん、過去の所属会社、常駐先、常駐先が顧客とした会社、そして中抜き多重派遣企業も。
山手線のとある駅を電車が通り過ぎるとき、私はいつも思います。70年以上前にB-29が東京に雨あられと投下したM69焼夷弾がタイムスリップして、私を過去苦しめた常駐先や、関わった企業のビルを焼き払ってくれないか、と。アホらしい危険な空想ですが、嫌な思い出がある町についてはそれくらいは考えてしまいます。
ただ、幸運なことに私は東京都民でも『多摩地区』の人間であり、『区民』ではありませんでした。23区の学校に進学した際に『市民』は田舎者だと『区民』から面と向かって軽口を叩かれた事もあります。実際に私の地元の神社には戦時中におそらく都心の子供達が多く疎開していた事を小学校の社会科の授業で習いました。
そうした経験から、私は自分自身を『東京都民』というよりも、『多摩人』と定義していました。そのため故郷を決定的に嫌いにはなりませんでした。
しかしながら、新幹線も通らない宮崎県民であり『多摩人』という自己規定から『都会人には気を付けろ』とあくまで辺境の民として思うようになっていったのでありました。
【5.京都人、ひいては関西人と私の差】
さて、ワナビ活動に話を戻します。
コールセンター勤務の傍ら書く小説は発表できるレベルにもならず、日によって設定が二転三転しました。夜勤前の休日に深夜の出勤に備えて未明の午前3時頃には布団から起き上がり、昼寝るまでの回らぬ頭でポメラを打鍵している私の脳内に一つの結論が浮かびます。
大阪人に感じていた『効率性』や京都に修学旅行した時に優しく声を掛けてくれたお土産屋さんのおばちゃんの『ヒューマンスキル』など、社会人に必要なスキル全てを私は持っていないからこそ、京都へ憧憬を抱いたに過ぎなかったのかもしれません。小説は人間を描くことだとも、人生経験が反映されるとも言われます。
関西人とりわけ京都人はそうした能力に長けているから小説が書けるのかもしれない。
先ほどのリストには記載しませんでしたが、私がブログを中断する前の過去と、ブログを再開した現在においても読者であり続けているわかつきひかる先生もまた京都人でした。
ワナビとして作品の方向性が固まらない私と、若くして作家デビューできた彼らや、わかつき先生との決定的な差異は、『人間の器』の大きさに過ぎません。
仕事ごときで苦しんでいる私が小説を書く事は噴飯物ではないか。小説家だって、編集者から改稿を指示されたり、出版社への営業を掛けます。取材のために色々な人に話を聞きに行くこともあるでしょう。
私がうだつの上がらない社畜なのも、能力の低いワナビなのも、所詮は『私』の問題で、地域性はない。永年抱いてきた京都への恋慕は失恋という形で結論づけられます。
20代の頃の私は、まだ自分に無限の才能があり、仕事がSESのITエンジニアでさえなければ修行して小説が書けるのではないかと思っていました。
30代の前半はSESを脱したから、仕事がチョロくなったはずなので努力すれば書けるのではないかと思いながらも、故郷への思慕の念から仕事のための資格取得に明け暮れました。
30代の後半は、再び訪れた夜勤とシフト勤務ですっかり頭が悪くなった自分と上がらない給料に向き合いながら、寝る前にポメラに文章を打ち続けたというのが総括となります。
京都に失恋しても、何だというのでしょう。最早その時の私は一頭の社畜でした。
誇るべき所があるとすれば、地元民ばかりである会社の誰よりも県内の文化財や史跡について詳しくなっていました。社内で姉のように親切に接してくれた女性の名字から、お父様の名前の一字を言い当てられるくらいに、その地域の歴史に詳しくなっていました。実にキモいです。最早私は産地偽装の南九州人となっていました。今でも、南九州の方と仕事で話すときは薩摩弁のイントネーションで話す事ができます。
【5.それでも、京都に行きたくなった時がある】
さて、そんな私にも京都が強力な引力を放ち、そこに引かれた時があります。
2019年6月。
京都国立近代美術館で日本とトルコの交流130年を記念して『オスマン帝国の至宝展』が開催されました。
『失恋』した私は、施設の立地には関心は抱いていませんでした。ただ、大学で本来の専攻科目から浮気してイスラーム圏の学習にのめり込んでいった過去を持つ者には、無視できない特別展でした。
トルコは数少ない親日国でした。何より、同じアジアの一国でありながら、西洋に対して極めて強い国でした。オスマン帝国はローマ帝国の末裔たるビザンツ帝国のコンスタンティノープルを征服し、イスタンブールを作り上げました。進撃はさらに続きます。帝国は16世紀にオーストリアのウィーンを包囲して見せます。
思想も先進的で、キリスト教国が異端審問会議や魔女狩りに明け暮れていたのに対して、オスマン帝国はムスリム(イスラーム教徒)でなくても、2等市民としてであれ、存在を許されました。
しかしながら、帝国の栄光は不滅ではありませんでした。
やがて『瀕死の重病人』と揶揄されるほど国力は低下しますが、日本の明治憲法に先駆けてアジアで初めての近代憲法たるミドハト憲法を発布しています。オスマン帝国は第1次世界大戦でボロボロに負けて支配した領土のほとんどを失いますが、ムスタファ・ケマルが率いるトルコ共和国が革命を成し遂げ、ビザンツ帝国復興の『メガリ・イデア』思想に燃えるヴェニゼロスの指揮するギリシア軍に攻められるがままであったトルコのルメリ(ヨーロッパ)側の領土にして帝都であったイスタンブールを守り切りました。
トルコとは、私にとって語るだけで目頭を熱くさせる特別性を持っています。
欧米の植民地支配と戦って独立性を維持したアジアの国は日本だけではないのです。トルコと日本はある意味ではとても似ており、遠い兄弟と言える国でありました。
ここで書きながら我ながらキモい事にマジ泣きしてきたので、トルコ語りはここまでにします。ただ、京都への『失恋』という文脈で語るならばトルコ史は私において学生時代の『恋人』でした。
露悪的ですが、美少女PCゲーマーであった私の文脈で語るならば、京都はまるで急に同じクラスに転校してきたアイドルやプリンセスのような属性のヒロインでした。トルコ史は私にとっては幼馴染みのお姉さんのようなヒロインであります。腐れ縁であり、幾つもの教養をあたえてくれました。社会科学を学ぶ上での『正妻』の一人であり、こうして専攻から逸脱させ、絶望した私を京都に連れ出してくれたのです。2度にわたる駆け落ちまでさせてくれるヒロインであるトルコ史やイスラームの学習は私にとってはやはり『別格』なのです。
以下の本は、私が一度買って手放した後にどうしても読み直したくて買い直した本です。
そんな国の国宝が来日してくると言うのです。私は初めて宮崎から神戸に向かうカーフェリーに乗り込み、京都でオスマン帝国の至宝展を鑑賞しました。


宮廷文化のようなハイソな文化財はやはり私に理解は難しかったのですが、少なくとも見る事が出来て良かった、そう思いました。
エルドアン大統領さえ視察に訪れた展示なのです。京都国立近代美術館には本当に感謝しています。

ミュージアムショップでは、トルコ名物の鯖サンドを食べました。

また、ショップで取り上げられていたオスマン帝国のハレムを舞台にした篠原千絵先生の『夢の雫、黄金の鳥籠』は結果として電子書籍で全巻購入することになるのですが、それはまた別のお話です。
【6.そして宮崎を離れた】
トルコ至宝展を見学してから、もう6年もの歳月が過ぎています。
それから曲折あって私は敗残兵のように宮崎から故郷に落ち延び、ブログを書いています。宮崎と京都の間には海があり、飛行機やカーフェリーがなければ行けない遠い土地でした。多摩地区から京都は夜行バスや新幹線で比較的安価に行けます。
しかし、京都に行くのは最早無い物ねだりとしか言えないのではないか、と私は思います。
京都を見れば私の何かが変わるか? 新しい魅力を感じるかもしれません。しかし、今の私の関心は少なくとも私が書きたい小説の『取材』であったり、『ロケハン』であったりします。
そこに京都は存在しません。修学旅行で訪れた京都や、京都国立近代美術館に行くために通過だけしたというのが、私の京都体験のため、リアルな舞台として捉えることが出来ないのです。今書けない小説を書こうとするのに『神託』を受けるために京都に向かうのは、かなり悪手です。
ただ、関西に思うことは、一度仕事で歪められたから、もう一度まっさらな目で見ようと思っています。
日本国憲法第十九条で思想・良心の自由は規定されています。
『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』
だから、仕事ごときで過去に抱いた京都に抱いた憧れを潰されてはなりません。そうじゃないと、旧友にも今のフォロワーさんにも悪いじゃないか、と自分に言い聞かせています。
少なくとも、京都人が小説を書くのに優れているというのは、才能を欠き、努力を怠った時代の私のこじつけの発見かもしれません。
藤沢周平先生は、故郷の山形県の鶴岡藩をモチーフにして『海坂藩』を創造しました。那須正幹先生がズッコケ三人組を活躍させた稲穂県ミドリ市は、故郷の広島市をモチーフにしながらも原爆を投下された事のない平凡な街として設定されました。那須先生は被爆者ですが、ご自身の体験を読者である戦後生まれの全国の子供達には強要しなかったのです。かろうじて『ズッコケ時間漂流記』では、3人組をタイムトラベルさせた鏡が広島の原爆でも壊されなかった事が描写されている程度ですが、この巻でも3人組の出身地は「稲穂県ミドリ市」から変更はされておらず、広島県は別の県として存在しています。
つまりは、自分自身が想像しきれる世界で物を描けば良いのです。加えて、私に小説の面白さを教えてくれた多くの作家の内このお二人は、京都出身者ではありません。
いい加減、ワナビと歴史ファンと言うことをうまく結合して物語を安定させるには、徹底して知り尽くしたり考え尽くした場所をモチーフにして、自分自身の目頭を熱くさせたキモい衝動を昇華するしかありません。
「小説は私という兵士が口ずさむ軍歌のようなものだ。メロディがやや悲惨味を帯びるのはやむを得ない」
藤沢周平 遺された手帳より
おそらくそこに私が芯から語りたいテーマがあるはずです。今は、己に向き合っていくしかありません。
自己をどう定義づけインターネットで物を書いていくか
【1.はじめに】
ブログ再開の切っ掛けを書く前に、一つ自分に課しておかなければならない事があると判明しました。
自分がどういう階層にいて、どういう人間としてブログを著述していくかの自己規定です。
今回は身内ネタは使いません。誰かを引用しても一応『公人』にカテゴライズされる人間である、という事を予めお断りしておきます。
オタクネタは使っても、それはどこまでも私の趣味であり、誰かが共有しにくい物であります。マイナー志向だからね!
読むなとは申しません。読みにくい、と言うことを予めお断り申し上げます。
加えて、これは『私自身』の問題であり、誰かに向けた物ではない事を重ねて記載します。
なので、多分Xにも記事更新の告知はしません。
【2.私がブログを書くと言うこと】
まず、憲法に規定された表現の自由はあります。
日本国憲法第二十一条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
憲法に規定された人権はあります。
第十一条 「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
ただ、私は近代憲法は『国家』という大きな共同体が『国民』という小さな存在に対して無闇に暴力を振るわないための枷だという学説に強く賛同しています。
同時に、社会は無数の『約束事』によって形成されています。
それは憲法の下位に属する多数の法律であったり、条例であったり、社会通念上の礼儀作法であったりします。
本当は『他者の人権を侵害しない』という一言で書くべき事かもしれません。
ただ、『人権』をどこまでの範囲で私と他者が捉えているのか、見誤る事もあります。
私個人が社会人として生きていく中で、他人に助けられて生きてきた事は事実です。
一方で、東京でSES(特定派遣)をしていた時に、夜勤中に物覚えが悪い時に派遣先の先輩からフロッピーディスクの角で頭を叩かれたり、派遣元の上司から頰をつねられたりしたこともありました。現行犯で立証さえできれば、完全に傷害罪です。
また、労働法違反のサビ残を強いられたり、多重派遣もありました。
『法律』は現実の世界では守り得ない物であり、『日本企業とは憲法番外地である』とジャーナリストであり批評家の佐高信氏が書いていたな、と思いながら東京を去り宮崎に向かいました。
宮崎の会社に関してはコンプライアンス上、問題ありませんでした。
あの会社は良かったし、出戻りしたいと思う時もあります。
ただ、去り際が良くなかったから、おそらくそれは適わないでしょう。人事が許したとしても、私が故郷とする南関東の勤務ではなく、宮崎でのポジションが与えられるはずです。
20代に過ごした法律的にグレーゾーンな部分が社会の常識だと思ってしまった、と同時にもう一つ反省があります。
それは人格形成が遅かったな、という点です。基本的に帰宅部だったので、友達付き合いや『先輩』『後輩』という上下関係や相手の実力を考えもしないで憲法第十四条の「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」だけが信条でしたから。自戒と反省を込めて今回のブログを書いています。
【3.芸術に適正のない者が創作者を志すということ】
ブログを再開してから反省が多いな、と言われるとその通りです。
『文学』で語るならば「恥の多い生涯を送って来ました」と一言で済むところですが私は『芸術』よりも『社会科学』に魅力を感じてきた文系の人間でした。事実は記録され、検証されなければなりません。
『芸術』に適性のない癖にワナビです。一作も書き上げていないので偉そうに言えませんが、今でも小説もどきをポメラやOneNoteやGoogleKeepに書きためています。
投稿歴もなく誰にも見せていないから、社会的には小説を書いている状態とは言えません。
だから、あらゆる著作物やテキストは『先輩』であり、『師匠』であります。他者の『作品』を貶めるよりもリスペクトを持って接して行きたいと思っています。
以下は私が好きな漫画家の二宮ひかる先生のコミック『初恋』に収録された『エンゲージ』という作品の一節です。
「「あれも嫌だ、これも嫌だ、これキライ」って・・・
そんなんじゃダメだって思ったんだ」
「オレ・・・「これが好きだ」って言って暮らしたい」
私自身はエンタメ作品に対して、作家の神野オキナ先生が書かれた『辛い現実を生きるための鎮痛剤』としての役割を求めています。
だから、誰かと共有して社交ツールになるようなジャンプやサンデーの漫画やアニメはあまり触れていません。ひたすら自分の『好き』があれば良いと思っています。
友達いなそうだって? その通りです。かなり少ないのです。
もちろん現実の友達にも『鎮痛剤』の役割はあります。ただ、私も友人も人間です。お互いに地雷もあれば、都合もあり、違う人生を歩んでいます。
結局、石鹸枠のアニメやなろう系とインターネットで影口を叩かれようが、それを見ている瞬間に現実を忘れられれば私は良いのです。
こうしたアプローチでエンタメを楽しんでいる癖に創作者を志しているのですから、仮に発表できるレベルの作品を書き上げても、私が商業作家になることは難しいでしょう。
だから、藤沢周平先生がエッセイで書かれたように、『故郷を離れた者には言う権利はない。じっと口をつぐんでいるだけである』という『当事者ではない者は他者に口出ししないようにする』作法を実践できるようにしよう。
せめて、他者の作ったエンタメ作品が思い通りの展開にならない事は惜しんでも、一方的な罵倒にはならないようにしよう、そう考えています。
【4.結びに】
偉そうに所信表明をしましたが、私は媚びるし、退くし、省みます。逃げもするし隠れもします。この記事をUPした次の瞬間から、客観的には違う行動をするかもしれません。
また、ブログをリブートするに当たり、デジタルタトゥーになりそうな記事が多く、私という人間の出来の悪さに頭を抱えています。
読む人が少ないブログだから良いけれど、過去の記事を削除したり、書いた翌日に加筆したりとこそこそやっています。
昔の記事でも、過去の物として見ることはできません。
紙の日記ならば、色褪せもしますし、角もボロボロになります。しかし、データとしての日記はリンクをクリックすればOLEDディスプレイのスマホやPCで読めてしまい、まるで今さっき書いた記事のように見えてしまう事が辛いところです。せめて丁寧に書き直したり、アフィリエイトのリンクは貼り直したい処です。
まあ、本格的にやばくなったら、このブログも『潜狸ぐすく』の名も捨てよう。
今の私の至上命題は『私』として生きていく事です。
ただ、昔『潜狸グスク』の名義で活動していた時には、私のハンドルネームで呼んでくれる人は居ませんでした。しかし、今は何人かの人が『潜狸さん』とか『ぐすくさん』と呼んでくれます。
この名前にはそこそこ意味を持たせていますから、呼びかけられると嬉しいという単純な自己肯定感があります。同人誌即売イベントでは同人作家さんにHNを顔を覚えて貰うことが出来ました。ラジオのサポーターとして名前を読み上げられてもいます。だからまだ、捨てきれません。
せめて過ちを犯すことが少ないように、過去記事の黒歴史は適宜削除するかマイルドにして、人様に迷惑を掛けないように、インターネットの世界について行こう。
ITエンジニアだけど、私は元々古い人間だし、ITの素養がない文系人間なので生きていくだけで大仕事です。
ただ、生きていけば、まだまだ面白い物はいっぱい見れる。それ以上につまらない現実を沢山見せられますが、それは面白い物を見た時の喜びを深めるか、小さな幸せをより敏感に感じられる足掛かりになれば、それで良いと思っています。
私の好きなアニメのゼーガペインのTV版はカミナギ・リョーコのこんな台詞で締めくくられます。
「早く生まれておいで。世界は光でいっぱいだよ!」
痛みを抱きしめて、それでも世界を肯定して、良くするために行動や発言をする事。
そのために考え続けること。何とか創作者としてステージに立つ事。それをこのブログでやっていければと思っています。
もちろん、メカンダーロボも推していきます。
以上を持ってこの記事の締めくくりとします。
誰かに贈り物をする事で自分のリハビリテーションになる~ヌ・リョウグ・ダちんとメカンダーロボ
【はじめに】
前回はブログの休止の切っ掛けを書きました。
順当に行けば、再開の切っ掛けを書くべきなのですが、残念な事に今の私は金曜日の深夜に終電を逃さないように働いてせっかくの土曜日は半日以上使い物にならず、日曜日は終わらない持ち帰りの業務の内、『休日』という気持ちを少しでも削がないように騙しダマシ生活するような日々を送っています。
なので、順を追って面倒い事を書くよりもテーマを絞ってサクッと書きたいので、ちょっと順番が前後しちゃうのは勘弁してね!
んな訳で、タイトルの感覚が最近新鮮だったので、ブログのネタにします。
【ブログを再開する切っ掛け】
私がブログを再開する切っ掛けは、永年観たいと切望していたロボットアニメ『合身戦隊メカンダーロボ』がyoutubeでまさかの全話無料配信する事でした。
これはどれほど素晴らしいことなのか! 私とメカンダーロボについては後日書くとして、毎週の配信を楽しみながらも私は一つモヤモヤしました。
作品の反響が今ひとつなのです。
youtubeのコメント欄をご覧になると分かるように、好意的な意見半分、同時代のロボアニと比べて物足りないと言うご意見や作画のアラを探すコメント、ストーリーへの突っ込みなどちょっとネガティブ寄りな意見が半々と言う処でしょうか。
確かに、同年に放送されたザンボット3やボルテスⅤに比べてクオリティが劣る事は否定できません。しかし、『憧れ』から観ていた私にはノスタルジーだけではない物を感じさせる作品でした。『魂』が籠もっているのです。
私個人のオタクとしての根幹は、例えば画面上で格好良く動くMSとは似ても似つかないイマイチな出来のガンプラをプロポーションを変えたり、塗装しようとして失敗したり、そうした今一つなクオリティでも楽しんだりする事から始まっていました。
また、美少女PCゲームやアニメを楽しむ時、どうして主題歌や声優が素晴らしいのに、シナリオが今一な部分があったりする程心に残るのは何故だろう、という処が自分自身の中にあります。
こういう楽しみ方は、かつてフランス書院美少女文庫のブログか、ジュブナイルポルノ界に女王として君臨されたわかつきひかる先生のブログ上に記された言葉の一つに集約されます。
『萌え』とは、『僕だけの物』である、とーー。
モブキャラの死や戦闘機や戦車の撃破シーンで、どれだけ人が死んだかを想像して戦争ドラマとして盛り上がり、主人公のジミー・オリオンの境遇や惑星ガニメデの悲劇を単なる舞台装置ではなく、さぞや辛いことだろうなと感情移入したり・・・ここまでは普通なのですが、それ以外の面において、私のメカンダーロボの楽しみ方はかなり独特でした。
私とXで相互フォローしてくださった『丸井たま』さんのように熱い展開を綺麗に纏めるのではなく、『仮のエンジ』さんのように、良ポイントを的確に見つけるような鑑識眼を持っておらず・・・友達も少ない私は洗練されていない楽しみ方をしました。
一般的にはアラと思われる部分を無理矢理考証してガンダム・センチュリーならぬ『メカンダー・センチュリー』を自分の中で作り、ストーリー上の矛盾をどうすればアップデートできるか、以前の回に比べてキャラクターの動きがどうして違うのか、シリーズ構成をどうすれば改善できるのか・・・? そんな視点で物語を補完しました。
膨大な設定を持つガンダムや、現実の兵器の解説書や従軍体験記、そして吉岡平先生の小説や海外SFが私の思考の補助線でした。メカンダーロボはかつてワナビであった私のリハビリテーションの教科書として適していました。
だけど、マイナーな作品の更なるマイノリティの楽しみ方をしている私には、疑念が浮かびます。本当は他の方が指摘しているように面白くないロボットアニメなのではないか?
いや、そんな事はないはずだ。私以外に誰か頼りになる人にメカンダーロボの魅力を解説して拡散して貰う事は出来ないか、という事でした。
【求む援軍!】
真っ先に浮かんだ選択肢は3つでした。
1.富野由悠季監督が演出(とみの喜幸名義)をしている回があるから、id:nuryouguda ちんにその回を記事にしてもらう。
2.永年聴いているネットラジオに取り上げるように頼み込んでみる。
3.尊敬している同人絵師にダメ元で色紙を描いて貰う。
1番目はXのアカウントを2つ削除して、最早メカンダーロボを推すためだけだと割り切って3つ目のX垢を作り直した私には、ハードルはさほど高くありませんでした。
ヌ・リョウグ・ダちんはとてつもない分析力と富野監督への愛がありました。
玖足手帖は私にとって聳え立つ山であり、頂上に住まうグダちんに声を掛けるのは畏れ多かったのですが・・・ふとガノタを見回して見て、まだ私はグダちんに近いガノタのクラスタにいるかもしれない、と思ったのです。
私の旧友でガノタは2名いますが、両者とも小説版のガンダムはあまり読んでいない事が分かりました。考えてみると私がリアルで知っているガノタで小説版ガンダムをちゃんと読んでいたのは、幼い頃近所に住んでいて、3歳年上の兄貴のように慕っていた少年でした。小説版の逆シャアのベルトーチカ・チルドレンを小学生の時点で読んでいた彼と、私が無理矢理『閃光のハサウェイ』を布教した(その時はまさか映像化されるとは思ってもいませんでした)旧友くらいしか小説版を読んでいるガノタを私は見た事はありませんでした。
やや乱暴な言い方ですが、現在のガノタのガンダムというコンテンツの消費行動は、ガンダムの作画がかっこよかったり、ガンプラやゲームを楽しむ上での『原作』の供給源であり、ストーリーや『作家性』ではないかもしれない、と思ったのでした。
ならば、メカンダーロボ公式がどんなにとみの喜幸演出や、湖川友謙作画監督を宣伝しても、今のガノタのメインストリームには届かないのではないか。
ガノタではなく富野監督ファンに観て貰えるように、その世界のアルファブロガーに頼むしかない。
私はグダちんには及ばないけれど、旧友がターンAやGレコをくさしていた時も楽しんでいたからには、富野ファンの端くれには間違いないのです。ならば、届けられる人に届いて欲しい。ダメでも失う物は何もありません。挫折したワナビである『潜狸ぐすく』は、単に好きな作品や作家を応援する名義に過ぎず、最早将来作家になった時のために黒歴史を作らないよう保身を行う必要もないのですから。
良い意味で『無敵の人』になったお願いにグダちんは快諾していただき、素晴らしいレビューを書いてくれました。
とみの喜幸回!『合身戦隊メカンダーロボ』第9話「最後の戦線 南シナ海」 - 玖足手帖-アニメブログ-
ありがとうございますありがとうございます…!
2025/05/10 01:22
少なくとも、私は『新宝島』という発想を持てなかったし、立体的に舞台を捉える事が出来ませんでした。グダちんにとっては玖足手帖でアフィリエイトで稼いだり、ストレッチや筋トレの合間に観るためのアニメとしては物足りない作品だったろうに、ここまで付き合ってくれた事に感謝しかありません。
さすがに富野愛に訴えて原稿を依頼したり、調子に乗って玖足手帖に長文でコメントを書いたりしているのも悪いので、ささやかながら食料やデレマスのCDをお送りした物でした。
グダちんへの名誉のために書いておきますが、これは『貢いだ』というよりも、リアルで友人に会った時に掛かる交通費や会食と同じくらいのコストを1回の原稿や長文のコメントを投稿した時に支援しています。『友達に話を聞いて貰った』中では常識の範囲内の出費だと私は考えています。
ひとまず、グダちんのメカンダーロボのレビューを読み、私の中ではメカンダーロボではやはり富野喜幸(当時)氏が濃密に関わった作品ではないのだなという事と、面白いか面白くないかは自分の価値観が全てで、人によってエンタメで楽しむポイントや気にするポイントは違うのだ、という当たり前の事実を確認できました。
ならば、それで良い。メカンダーロボは推してくれる人と応援を続けて、別口でグダちんも富野監督も推そう。まあ、ちと仕事が忙しかったり、これからプライベートでやらなければいけない事やライフイベントを考えるといつまでおたくとして楽しんでいけるかは分かりませんが・・・。
【誰かに贈り物をすると言うこと】
さて、そんな中でグダちんにCDを贈った後で私はふと気付きました。
私自身が最近音楽買ってないじゃん・・・! と。
10年間コールセンターで働いていたために、プライベートはとにかく聴覚を休めたかったのと、AppleがiPodTouchの生産も終了して、OSのアップデートの提供が終わり、音楽を聴く習慣を失っていたことに私は気付かされました。
私の好きなチェ・ゲバラの言葉にこんな一説があります。
『人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドはダイヤモンドとぶつかることによってしか磨かれない』
グダちんというダイヤモンドに触れることで、私自身が失っていた習慣を思い出すことが出来たことは思わぬ収穫でした。
そんなわけで、早速メカンダーロボの主題歌の『トライアタック! メカンダーロボ』や『さすらいの星 ジミー・オリオン』の音源が配信されていないか確認したのですが、どうも正規品の歌ではなく、別アーティストのカバーが主流でした。
そんなわけで、メカンダーロボが24年に配信されるよりも前に発売されたミラクルロボットフォースのCDをAmazonで購入しました!

メカンダーロボ以外の作品も混じっていますが、それはもう関係ありませんでした。
メカンダーロボ関連でXのアカウントを作り直したおかげで、70年代のロボットアニメの良さに気付かされる事が多くなりました。
少なくとも『ブロッカー軍団Ⅳマシーンブラスター』はAmazonプライムビデオで無料で公開されている10話まで観ましたが、面白い事は間違いありませんでした。
ならば、同じく葦プロが制作した『超魔術合体ロボギンガイザー』も、マシーンブラスターを全話楽しめたら、多分観ても良いと思っています。
メカンダーロボを切っ掛けに、今語り継がれている70年代のロボットアニメが東映アニメーションやバンダイなどの大きな資本の元で生き延びてきたコンテンツであり、その中で埋もれたマイナーなロボットアニメが沢山ある事を私は改めて知ったのです。
マイナーな作品は後世に残らなかったから駄作と断じるのに忍びないと私は思っています。
むしろ、『名作』の再生産によるオリジナリティの喪失や無意識に作られる『お約束』が創作の世界を狭くしているのではないか、とたまに思います。
例えば、私の好きな『バディ・コンプレックス』は同じサンライズ作品として『ガンダムSEED』やバディ物という観点では『タイガー&バニー』の影響があるはずです。また、第一話の学園生活でヒナが主人公の渡瀬青葉に思いを寄せているシーンは、ゼーガペインのミサキ・シズノを思わせます。
最近楽しんだコミック作品の『世界最強の騎士は、必ず死ぬヒロインを救うため異世界でも最強の騎士となる』も、『コードギアス』の影響が間違いなく感じられます。ゲーム世界転生のなろう系ではある物の、貴族制を持つ欧州のような国家に植民地化された日本で独立のためのレジスタンス活動をするという舞台設定と、敵の開発したロボット兵器で戦う所はまんまです。
これはパクリなどの悪い事ではなく、先発の成功作を元にエンタメ作品の企画書やプロットが作られ、ビジネスを軌道に乗せる事はやむを得ません。また、同じ制作会社やスポンサーが先発作で下積みをしたクリエイターが大仕事をする際に、自分が関わった作品の色が出る事も避けられないのです。
少なくとも、『ガンダムSEED』で成功した福田己津央監督は自分が下積みをした『機構戦記ドラグナー』の影響を隠さず、『ガンダムSEED FREEDOM』でキャバリアーを登場させました。世の中に完全なるオリジナルは存在しない、という言葉とエンタメはシェイクスピアの時代に完成されている、という誰かの金言もあります。後半もわかつきひかる先生だったかもしれません。
ただ、『完全なるオリジナル』がない中で、受け継がれなかった何かがあり、それを現代風にアップデートできたら、少なくとも受け手には『マンネリ』を感じさせないはずであり、それが出来れば挫折したワナビである私のリハビリテーションは一旦終わり、また物語を作る意欲が湧くかもしれません。
ひとまずは、誰かに物語の魅力をプレゼンテーションし、違った角度から触れて視野を広げる事。これが私に今できる事なのではないか、と今は思っています。
ブログ再開するかもしれないお知らせ
2015年11月21日を境にしばらく放置気味だった本ブログ『潜む狸の日記』ですが、2025年3月31日の記事でいきなり再開しました。
空いていた期間何をしていたかと言われると困るのですが、色々と嫌な事が重なった時期でした。
1)人生が詰まらなかった事
これが一番大きかった事でした。
2015年頃の記事を読むと、一生懸命書いているから一応面白い物や脳味噌使って書いたな、という感じはします。
ただ、現実生活だけを描き、日常のよしなし事を更新のネタとしてtwitterとかだと身バレするのが怖いから、客も少ないブログに書いていた印象ですね。
それは仕方がありません。
空虚でした。
都落ちしたけれど、特定派遣(SES)じゃなくて直接雇用になりました。名ばかり正社員は脱しました。
通勤も満員電車に揺られない自転車で健康的で、買ってから乗れずにホコリを被るだけのマークローザは毎日の足になってくれました。
自動車も買えました。軽自動車だけど、それは問題ありませんでした。ターボも付いているから動力は問題なく、隘路もスイスイ行けます。
コンピュータは実体はあるけれど、ソフトウェアが主役です。自動車はエンジンと車体という物理的なハードウェアが主役であり、外観や乗り心地の特色を多く持っていました。
自動車は私をゴッドマスター…という程強くはないけれど、ボトムズ野郎にしてくれました。
車種はN-ONEでした。
富野由悠季監督が自伝の「だから僕は…」で「Nコロ」と書いていたN360のデザインをモチーフにした車種なのは本当に偶然でした。
N-ONEは2つ目ライトにフロントマスクが黒く縁どられ、タヌキ顔でとても愛嬌があります。このデザインと、富野監督が乗っていた車種の現代版ということで、今でも私は次にクルマを買い替えてもN-ONEにしようと思っています。
ただ、幸せはそこまででした。
常日勤のポジションでしたが、キャリアアップと帰郷のために夜勤とシフト勤務をする部門に飛び込まねばなりませんでした。
リスクを承知で飛び込んだ部署では、当初の聞かされていた以外に難解な業務内容が増えていきました。しかも、このタイミングで会社の経営上の理由から3−4年昇給もなく給料が据え置かれたのです。
これ以上当時の現実は敢えて書きません。今回自分に課したお題は9年間ブログを停止した事ですから。
2)はてなブログへの変更に対応できなかった事
はてなダイアリーからはてなブログに変わった時期だった事は覚えています。
移行作業って何を行えばいいの? Amazonのアフィリエイトリンクは全部貼り直して、Amazonに新しいURLを登録し直して…。
前にやったはずの事なのに、もう覚えていませんでしたし、ここで複数のハードルが重なります。
ITエンジニアとしての才に欠け、はてなブログへの移行手順も理解するのに苦しんでいる私が書く合格体験記に意味はあるのだろうか? はてなはオタクブログだけではなく、ITエンジニアの方が書いているガチ物の技術ブログもあります。そうしたブログと並べた時、私のブログに価値があるのか?
また、かすかなアフィリエイト収入となっていたIT資格の合格体験記も私の中で問題になります。資格試験は受け続け、宮崎で取った資格は4つと、LPIC101でした。
前者4つの資格は、日本のIT業界ではかなり特殊なベンダー資格です。会社への身バレを防ぐためには資格の合格体験記を掲載した事を後悔しました。
耳元で悪魔が囁きます。もう黒歴史になりつつあるブログ辞めて良いんじゃないの? と。
3)インターネットで徐々に人間関係が途切れていった事①
このブログを開始した時期はまだmixiがある程度ユーザーを確保していた時代でした。
ただ、ユーザーが徐々にTwitterに流れ、一度mixiで友人になった方は新しいプラットフォームに流れていきました。
それではとTwitterとmixiを併用しだしたのですが、都落ちからしばらくして、東日本大震災が起こります。
幸運な事に私は震災を回避できました。
当時東京にいても震災で死ぬ可能性は低かったと思います。九州という遠隔地かつ偏西風が吹く地理的な条件から、原発事故の放射能に過度におびえる必要がなかった事は事実です。
ただ、宮崎にいても放射能は怖かった。その事を素直にmixi日記に書いた事で、『お前のせいで風評被害が起きるんだ』と北関東出身の友人に難癖を付けられ、売り言葉に買い言葉の末、彼とはマイミクを切られました。
ただ、彼との交友経験は浅く短かかった。旧友は震災の恐怖と状況を共有できなかった事でも交流は途切れていません。
北関東出身の友人との絆はそれだけの物でしかなかった、とも言えます。
同時に私が人間関係を維持したり、他者への気遣いを社会で得られなかった事は、ここで弁解する機会を与えていただきたいのです。
私が当時の客先でどう頑張り、苦しんだのかを直接見ずに、過去の1つ目の常駐先で言われた評価をコピペして私のボーナスを削り、昇給を渋り、金銭だけではなく精神面でも削った都落ちの原因を作った会社を赦すことは出来ませんでした。私が仕事上ミスをして、それから負のスパイラルに陥って常駐先を去らねばならなかった時は迷惑をかけたとは思います。しかし、繰り返し会社から言われたミスの一つは、夜間に常駐先の上司に電話でエスカレーションをして、寝起きで不機嫌になった彼が言い放った言葉を実行したからでした。社外の人間が一方的に喚いた評価を身内として庇いもせず、次の常駐先の評価に持ち越す事は果たして正しかったのでしょうか。
怒りを抱え込みましたが、奨学金や学生時代の未納分の年金を払わねばならず、何より大学時代に家が傾いていました。父が会社の早期退職に応じて個人事業主になったけど、滑り出しが悪かったからでしたし、私という得意科目以外は勉強したがらないどうしょうもないガキを大学に行かせるため、教育費用が嵩んだ事も家の蓄えを削っていったことでしょう。
大学時代の私はケチでした。サークル仲間と週一でファミレスで語り合うのもお金が惜しかったから、一つサークルを辞めています。靴は爪先のゴムが外れてパカパカするまで履く学生時代を過ごしました。働き続けねばなりませんでした。だから、20代の社会人にはそれが社会の常識なんだ、という思考として定着させざるを得ませんでした。
そこで稼げるエースプログラマーになろうと思わなかったのは、度重なる夜勤生活で頭が悪くなっていた事と、私自身は学生時代の苦手科目から、プログラマーになる事は無理だと悟っていました。今でもインフラエンジニアと言えば聞こえは良いですが、IT土方ともIT事務作業員とも言える仕事をしています。
ただ、当時はワナビとしての夢を捨ててなかったし、小説家になる事こそが私を救うと確信していました。だから、大塚英志先生の評論も読んでいたし、ラスカルにしお先生がホームページに記載されていたアニメの批評も読んでいました。また、モデラーとしてぶっちゃけ話をする下等製作所。それが当時の私が縋ったメディアでした。
お二人の先生にも下等製作所にも感謝しています。何をどう書けば物語は面白くなるか分からず、流行りのアニメも追えなかったり、アニメを見ても傷付いた魂を救いきれなかったりした時期に、観たアニメが楽しくなかったり物足りないのは何故なのか、考えるよすがを与えてくれましたから。
しかし、やはり私は間違っていたのでした。社会人として力が足りない時期にどの仕事なら出来るのか、会社からの脱出方法を考えねばなりませんでした。アニメがつまらないのは、私がつまらない人間になっていたからでした。放送という形で与えられるアニメではなく、レンタルショップに足を運んでもう一度好きだったアニメを観れば良かったのです。忙しかったり夜勤ありのシフト勤務で曜日感覚を失い、録画し損ねた時期のアニメでも良かったでしょう。期限内にレンタルショップへ返せる自信なんてなかったけれど。
こうして元々友達の少なかった私は、他者に優しくすべき時に毒舌な『評価』や『批評』をしてしまう歪な面が20代や30代の頃あったのだ、と告白しなければなりません。
神の前ですらないし、キリスト教に批判的な私が告戒して何になるんだ。ガノタ的な文脈で行けばノベンタ元帥を誤って殺したヒイロ・ユイが遺族に罪の告白をしたように今生きている元友に謝れよ! という批判は甘んじて受けます。ただ、北関東の元友人とは最早連絡を取る手段はないのです。
元友人のツイ垢はしばし追っていました。彼の相互フォローアカウントは多かったのですが、ある日ふっつりと検索できなくなりました。ハンドルネームを変えただけかもしれませんが、アカウント名は把握していませんでした。
今、彼に謝っても自己満足に過ぎません。私から接触され、謝られる事すら苦痛なのではないでしょうか。相互フォローの多かった彼のツイ垢を思い出します。最早彼の友人ポジションは他の多くの方々で上書きされています。そちらの方々ほど私は元友人と共有できる物は存在しません。ゆえに私はせめてもの贖罪と悔恨のため二度と同じ事をすまいと心に刻み続けるしかないのです。
4)インターネットで徐々に人間関係が途切れていった事②
震災後、当時政権与党だった民主党は下野し、第2次安倍政権が始まりました。
震災前後からネトウヨの活動が活発になります。
私個人は、思想はリベラル寄りであり、安倍元首相やローゼン閣下として人気のあった麻生元首相の言動に違和感を感じていました。しかし、mixi日記のニュースにそれを書く事で次々と炎上していきました。ファッション右翼だと思っていたマイミクから都度批判コメントが寄せられました。いま回顧録を書いて改めて気付かされます。あの時私は尖りすぎていました。マイミクの地雷を踏んだかもしれませんが、一方で彼は私を批判する事で他の方からの批判から守ってくれたかもしれません。
思い出は美化される、と言います。私は敢えて過去のマイミクを美化する作業をしています。
だって、謝罪も仲直りもする気がないから。これは彼と私とのあるかなきかの『友情』のお葬式…というには時間が経ちすぎた『何周忌』だから、美化して惜しむ事を絶縁後の最低限の礼儀として行っています。
私はネトウヨになる事はできません。
それは私の小学校の頃からの読書の原体験に由来します。中沢啓治先生のはだしのゲンだけではなく、早乙女勝元氏の東京大空襲の本や、被爆者である那須正幹先生のズッコケシリーズを読んでいました。どの先生も鬼籍に入られましたが、今挙げたマイミクよりも多くの事を私に与えてくれました。
また、この先生方が著した内容が、私の戦争に対する原点であり、第一の近代日本である『大日本帝國』が斃れ、第二の近代日本であり再建された『日本国』に繋がる道でありました。
私は才能はありませんが、戦後の日本に生まれたおたく(ここをカタカナで書かない辺りが大塚英志先生へ傾倒していた残滓が感じられて面映ゆい)の文脈で語るならば、手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生のように兵隊に向かない子供でした。
中高時代にはミリヲタになりました。富野由悠季監督や高橋良輔監督の家庭に戦争が影を落としていた事を知ったからです。また、富野監督がガンダムのようなロボアニがない時代に貴方は何を娯楽にしていたんですが、という子供からの質問に太平洋戦争の戦記物だと答えていた事も一因です。またライトノベルを楽しむようになり、吉岡平先生の『無責任艦長タイラー』に触れたからでした。
ミリヲタになる事で、様々な事を学びました。
旧海軍の技術者の技術的な誇りと同時に米軍に比べて技術的に何が劣っていたのか反省がこもった牧野茂氏や福井静雄氏の著書を読みました。私が今回自省的に文章を書いてるのは旧海軍の技術者の手記のお陰も幾ばくかあるでしょう。
光人社の従軍体験記も何冊も読みました。「弓兵団インパール戦記」で、敢えて従軍した時ではなく、戦後に知った事として後書きに書かれていた三八式歩兵小銃の欠点は、批判というほどでは無いですが、淡々と英米の歩兵小銃に劣る事について触れられていました。
坂井三郎氏の零戦への愛と厳しい指摘、そして米軍の優れた組織体制と日本軍の違い――。
様々な戦争の不条理や旧軍の欠点を学んできました。私個人の政治的志向はリベラルですが、高校時代はおそらく日教組に属していた教員からミリヲタである事を煙たがられた物です。
しかし、無条件に日本を礼賛し、問題を全て外国人や左翼のせいにするネトウヨとは言葉と価値観がかみ合わないのです。彼らの『愛国』は『恋国』に似ています。国にいくら愛を叫んでも見返りはありません。私は国を良くするために『憂国』をし、問題を発言します。広義には『愛国』だと確信しますが、『反日』と誤解されるのです。
昔語りからブログを辞めた本題に戻しますと、最早SNSでニュースへの発言をする事は控えざるを得ませんでした。
勿論、日本のリベラルにも反省が必要な点は多々ある事は承知しています。ただ、考えて欲しいのです。
日本のネットニュースで無料で読めるのは、右寄りで知られるフジサンケイグループの記事ばかりです。YahooでもMSNでもそれは変わりありません。朝日新聞でも毎日新聞でも東京新聞でも有料記事が多く、貧困化する日本では、経済的な面からリベラルな政治思想が生まれにくくなっているのです。
ネトウヨの皆さんは、自分たちが日々触れているメディアは本当は『オールドメディア』の一角であり、右方向や嫌韓に『偏向』しているかもしれない、と疑ってほしいとは願っています。リベラルへ向けた言葉は、鏡写しになった左右対称の自分に言えないのか、と。
5)インターネットで徐々に人間関係が途切れていった事③
会社関係の事でした。つまらない事です。みんながスマホを持ち、プリインストールされたFaceBookをしましたが、会社の皆様とは話が合いませんでした。おたくだから仕方ありません。誰もいいねを付けないから、読んでないだろうと思って仕事の愚痴を書いたら会社経由で痛い目に遭いました。
また、宮崎という閉鎖的なコミュニティでGoogleマップのレビューを批判されたこともありました。こうして私は2015年にインターネット失語症になって行ったのでした。
6)それでも、書くしかなかった
ただ、ブログを更新しなかった9年間、それでも書く事を諦めずにニュースサイトのコメント欄やGoogleマップのレビューの投稿を続け、他にもインターネットの片隅で書き続けていました。ワナビである事は諦めかけていますが。
7)総括
言いたい事を書き過ぎたし、けれども語り退りない部分はあります。
不足分は今後時間が取れて気が向いたら書くとします。語る事がマイナスになるかもしれないので、確約は出来ませんが。
それよりもトゲトゲしかった時期の私と付き合い、今でもまだ友人であり続けてくれた者との『絆』(3・11直後っぽい言葉ですね)を深めるか、これからの友人との仲を深めた方が良い、と思いました。
私はやはり語りたがる人間なのです。
今も幸せだとは言い切れませんが、少しは上向いているかもしれない。しかし加齢がひたひたと忍び寄って来ています。
私が好きなアニメのゼーガペインの主題である『痛み』と『幸福』を強く感じます。アニメの作中で初めてリセットが描かれる8月31日にミズキはプールサイドで「幸せへの痛み…なーんてレディコミの受け売りだけどね」とおどけてみせます。
その後、リセットされたサーバから出撃するソゴル・キョウは「どれだけ苦しめば幸せになれるんだ」とゼーガペインは形を変えて何度も問いかけられます。
私の9年間の空白においてインターネット空間は、幸福と痛みの2項において痛みが相対的に大きく、それが筆を止めていたのです。
過去の私のブログを読めば幸せもあったじゃん! とか、お前が幸せを拒否したんだよ! という側面はあると思います。だから、Xのアカウントは一度削除し、リスタートしました。FaceBookも未練たらしくアカウントを残していますが、手元のストレージの空き容量を見て、写真データをダウンロードしたら、もうアカウントは削除する予定です。
今言えるのはそれだけです。
明るい記事もその内書きたいと思っています。何よりXのアカウントを作り直した中で、リスタートを切った私が書くべき物や期待される物は、別の事だとは自覚しています。
作り直したXではせっかく繋がった方を離さないように、ポストできない内容をこちらで書こう。そう思っています。
とある春の朝の不穏な夢についての記録
夢を見た。
春の木曜日の朝に見た夢は、明るい景色の中に不穏な空気がそこかしこに混じっていた。おおよそ3幕に場面が分かれていたので、記憶のままポメラのキーを叩いて残してみた。
1)震災の東北
冬枯れした木々が生え、茶色い地肌を見せる山と海の間にある小さな町に住んでいた。
激しい地震が起きた。道路を走っていたジャガーの自動車の向きを傾かせるほどの物だった。津波が来るというので山の頂上を目指した。
逃げる人々の中には、地震の衝撃で気絶したおじいさんを起こそうと竹竿でひっぱたいているお婆さんもいたような気がする。皆も私も、他人のことは構わずに、坂道を駆け上がり、山を目指した。
幸いな事に津波は来なかった。
2)山の中の湖と洋館を改装した博物館
同じ町かは知らないが、場面が変わった。
山の中に湖があり、その突端に古い洋館を改装した博物館があった。
私はまだティーンエイジャーだった事が判明した。父は私を連れて博物館に行こうとしていた。博物館自体は好きだったが、もう何度も行っていたし反抗期だったから、私は行くことを断り、父だけ博物館に向かっていった。私は引き返そうとしたが、湖岸と博物館の壁の間の狭い通路に、見慣れぬ制服姿の学生の男女が来館目的に訪れてきた。学生たちを割って引き返しても、誰かが湖に落ちるだろう。
やむなく私は学生たちの邪魔にならないように先に博物館に入っていった。
博物館の中で広いホールがあり、学生達は演武をするのだという。学芸員が洋館時代の由来を話すのを聞きながら、開催まで待った。
一人の女子高生の武道のパフォーマンスが素晴らしく、息を飲んだ。空手か柔道かは分からない。が、道着姿の彼女がカウンターにパンチを見舞うと、針が振り切れていた。彼女は強く美しかった。
その姿の輝かしさに私は強く思った。こんな田舎にいたらダメだ。もっと輝ける場所に行かなければ。彼女たちの学校の制服はこの町の物ではなかった。おそらくイベントのために東北にあるこの町を訪れたのだろう。演武はまだ続いていたが、私はひとりの姿を見ただけで十分だった。
私は博物館の出口に向かった。
現在の会社を辞めてクリエイターに転職していった外国人の青年が私より先に博物館の外に出て行ったのを覚えている。
3)戦災の町と大学と造船所
私が行った都会は、大きな川が流れている海沿いの町だった。かつて戦争で、町には爆弾が落とされた土地だ。
河口近くには熱線と火災により薄い黄土色に変色した石垣の上に鉄橋が再建され、鉄道が走っていた。
かつての爆弾で多くの死者が出ていた。川沿いに無秩序に建てられた町工場たちの排水管に、今でも上流や川底を流れてきた死体が詰まるのだという。
そのせいか川土手には『死体抜取リマス』と下手くそな手書き文字のベニヤ板の看板が幾つも並んでいた。潜水作業員達が死体を抜き取っては違法にもそのまま海に流しているらしかった。
夢の中の私は現実にはない漫画の才能があるらしかった。
そんな町の大学の漫研に私は属していた。分厚いコンクリートで固められたトンネルのような廊下に、幾つも気密性が確保された部屋があった。感染症対策で30分ごとに換気のために部屋を空けて変えなければならないというルールは不自由だったが、皆で律儀に守ってガンダムエースに投稿するクロスボーン・ガンダムのパロディ漫画を皆で描いていた。左腕を失いながらも『死の旋風』隊に立ち向かうクロスボーン・ガンダムX-1の雄姿を描いていたようであった。
2部屋ほど交代した後で、私はいったん部室から抜け出してキャンバスを散歩した。
トタン板で囲われたテニスコートかプールがあった。隙間から女性の姿が見える。彼女はある時は安彦良和のタッチであったり、湖川友謙のタッチでカラーで存在していた。ある時は骸骨にもなった。
この夢は全て実写の夢だったが、ここだけはアニメというか絵画調だった。
ただ、彼女が先に演武をして見せた少女ではないことは確かだった。
トタン板で囲われたスペースを一回りすると、私は砂浜になりかけている河口に出た。
対岸には造船所があり、船台の上に旧式の潜水艦が乗せられていた。
旧式だとすぐに分かったのは船型が最新の鯨体型や葉巻型でも涙滴型でもなく、水上行動を重視した舳先の付いた艦型だったからだ。2000トンにも満たない、かろうじて伊号潜水艦に類別できる、SSKよりも少し大きな艦だった。
この町の歴史を思い出したとき、砂浜に白い骨の破片が埋まっている事が私の目に付いた。
そこで目が覚めた。
4)もう永年ログインしていないmixiに書くような内容でもないし、アカウントを削除し忘れたFaceBookももってのほかの内容であった。
Xでわざわざプレミアム登録して記事を作っても、せっかく出来た友人が投稿した推しや私が普段語っている事がこんな昏い風景として私の脳内に投影された事を、彼らは何と思うだろうか。
かといって匿名ダイアリーで好奇の目にさらされたり、著作権を放棄するのも未練が残る。
せいぜいはてなダイアリーからはてなブログへの移行に失敗したこの日記に残すのがちょうどいいだろうか。
そんな投稿であります。
バンダイチャンネルをテレビの大画面で!
それも今放送中のやつじゃなくて。
少し前に見たかったやつ。
前に見たけど、見直したいやつ。
物心つく前の放送で見れなかったやつ。
こういう時、人はレンタルビデオ屋に走るもの。けれど、近所のビデオ屋の品揃えがよろしくなかったり、運良く在庫があっても借りられている事の多いこと。
ますます作品への思いが深くなっていくのは良いけれど、目的を遂げられないんですな。
地方ではレンタルショップは遠いし、1軒1軒が離れているから行脚も骨だ。
ますます焦がれる思いは強くなり、IT業界に身を置きながらアナログ好きだった私は、ひとつの決断をした。
HDMIケーブルをAmazonで注文したのである。

HDMIとは、映像の出力端子の規格だ。PCにも、液晶テレビにもあるのが味噌。二つの機械を繋ぐとあら不思議、ノートPCがテレビを外部モニタとして使用できるばかりか、音響もテレビ側から出せるんですな。
こうするとホラ、目の前にマウスとキーボードがなく、ネットサーフィンをせずに動画だけ楽しめる環境の出来上がり。
15.6インチのノートPCよりも大きい19インチの大画面だ! 19インチが大画面というと失笑を買いそうだけど、しかしノートPCよりも格段に画面も発色も優れている。

アナログな環境を復活させるために敢えてテクノロジーに頼る妙な努力。
そんなわけで、今はバンダイチャンネルで心置きなく見たいアニメを楽しんでいます。
うーん、こりゃ都内でレンタルショップを行脚していた6年前よりも遥かに便利だ。
技術の進歩と少しの工夫で地方の不便さもずいぶん変わるものだなあ、と密かに達成感を感じながらアニメを見るのでした。
最後に、今回のHDMIケーブル、Amazonから届いた時、映画とのタイアップで妖怪ウォッチの段ボールに入っていた事を付記しておきます。
これまたびっくりだニャン!






























