6/27(日)『ノーブレス・オブリージュ』を駆逐せよ
【1.失われた10年から20年へ】
失われた10年。
そんな言葉で90年代を総括していた時期にも庶民を巡る経済事情は良くならず、気が付くと『失われた20年』という言葉が耳にされるようになってきた。
遅いよ、と思う反面、政府関係者がこのような発言をするという事は、今までの経済政策を過ちと断じたことであり、この一語においても政権交代の価値はあったのだ、と思う。
確かにこの10年、失われる一方でなかったことは認めねばならない。2002年2月から2007年10月までの5年9ヶ月は戦後もっとも長い景気拡張期間を記録し、一説にはいざなみ景気と呼ばれている。
しかし、その中で大量の非正規雇用者の増加や、相変わらず新卒の採用を巡る状況が苦しいことは間違いがない。
【2.若者は劣化したのか】
勿論採用する企業の側にも言い分はあるだろう。
近年の日本は、躍進する中国・韓国との厳しい国際競争に立たされ、かつてのようにイチから人材を育てている余裕がなくなった。
特に近年の若者は、ゆとり教育で過去に比べて劣化している。
採用はしたいが、マッチできるレベルに達している人材がいない、などなど。
そんな中、少し前のITMediaのコラムで興味深い記事が載っていた。
『新卒の就職が難しい本当の理由』
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1005/10/news040.html
【2.ユニークな切り口】
このコラムでは、若者が劣化したという前提が裏にある政府の若者の雇用事業は効果が望めないものだとしている。
理由として挙げられたのが、企業の役員報酬の増加だ。
若者の雇用が多かった時代、企業の役員の給与は今より少なく、新卒の10倍程度だった。
だが、20年ほど前に新卒の数百倍の報酬がある欧米に比べて少ないことが指摘され、役員含め部課長の報酬も大幅に引き上げられた。
その代償として、日本の市場は新卒を雇用する余裕を失ったのだ。
最後に、政府の出来る現実的な対策としては、企業に一定数の新卒の雇用を義務づける事ではないか、とコラムは結んでいる。
私にとっては耳新しい事象で、このコラムがトンデモなのか、はたまた隠された真実なのかは何ともいえない。
ただ、幾つか傍証といえるものが記憶にある。
冷戦期にソ連のスパイが日本の官僚か企業のトップが、老後の生活資金に不安を感じている事から買収を図ったと言うエピソードがその一つだ。
また、日本企業に先んじてこの給与システムを導入しているはずの欧米が、日本に比べてより高い失業率を示している事は、無視してはならないだろう。
この情報には一定の信頼を置いてもいい。
【3.ノーブレス・オブリージュ】
ふと思い出すのは、『ノーブレス・オブリージュ』というフレーズだ。
この言葉は、90年代から続く保守化がより進行した00年代以降でよく耳目にするようになったと思う。
直訳すると『高貴なる者に課せられた義務』だ。社会的地位の高い者にはそれ相応の責任が伴う、とも捉えられそうだが、それをノーブル=高貴と言い変えているのが味噌なのだ。
今の日本の企業社会に蔓延している給与体系は、こう言い換えられる。
オブリージ(仕事の責任)がある、だからノーブル(高給)でなければならない。
しかし思うに、それは仕事のやりがいであるとか、地位とかで満たされていいものだ。
私の好きな戦国武将、北条早雲を回顧した家臣は次のように述べている。
「同じ釜の飯を食い、同じ樽の酒を分けあって呑む人であった」
日本人の横並び意識には、こうした一体感があるトップの方が馴染むのではないか。
日本の経営陣には『武士は食わねど高楊枝』の精神を持っていただきたいと思う次第である。