南九州と鎌倉北条氏

senri_gusuku2013-11-04


 昨日都城市にある都城島津邸・島津伝承館の企画展『幕末維新の都城』を見てきました。

 幕末を幕府や薩摩藩を中心にし、その中で都城島津家を中心とする都城がどのような立場にあったのかを教えてくれる展示であり、なかなか新鮮でしたが、ふと気づいたのは常設展でも展示のあった薩摩藩の家臣の家紋一覧でした。

 ここでの展示の目的は、丸に十の字と言われる島津の家紋に対して、都城島津家は丸と十字が離れており、これは薩摩藩で島津宗家と縁戚関係にある分家の家紋のバリエーションを示すことにあります。
 ただ、それ以外でも有力な家臣の家紋も記載があり、その中で面白い物を見つけました。

『三つ鱗がある!』
 鎌倉や小田原の北条氏で有名な三角形の中に逆の三角形を配置したあの家紋が二つありました。
 一つは鉄砲伝来で知られる種子島氏。小田原北条氏のように、本来は正三角形の家紋を潰して二等辺三角形にしています。
 もう一つは、文字通り北條氏ということで、あの正三角形の家紋でした。

 早速ベンチに座ってスマホWikipediaを読むと、興味深い記述がありました。

同家(種子島家)の家譜では、鎌倉時代初期、平清盛の孫行盛の遺児が、北条時政の養子となり時信と名乗って種子島に入ったのが、後の初代信基であるとしており、平氏を名乗っている。ただし、実際は鎌倉時代中期に島津荘大隅方惣地頭・名越氏(北条氏支流)の代官である肥後氏(藤原氏支流)の一流が種子島氏となったと見られる。

 種子島氏は伝説であるにせよ、北條氏と関わりがあり、そのルーツは鎌倉時代まで遡れるのです。
 そうすると、もう一つの北條氏は? という事ですが、パッと調べた限りでは出てきませんでした。
 ただし、鎌倉時代に島津家が比企能員の乱に連座して以来、日向国守護職都城盆地を中心とする島津荘の地頭職は北條氏赤橋家(足利尊氏の妻登子の実家)が歴任するようになったと言われています。彼らの子孫や庶流が生き延び、薩摩藩に仕えるようになったとしても不思議はないわけです。

 歴史の奥深さと、鎌倉時代からの流れがそのまま残っている南九州という地域の不思議さに感慨を受けながら伝承館を後にしました。