高岡にはなぜ石垣がなかったのか
【1.高岡という町】
薩摩藩は、本城である鶴丸城(鹿児島城)以外にも、領土内の古い山城の麓に武士集団を住まわせ、いざという時に備えていました。
外城制度と呼ばれるこの一国一城令にたいしてスレスレの脱法制度ですが、こうして作られた麓、時代が下ると郷と呼ばれる居住地は旧薩摩藩領で113か所あり、宮崎市近郊でも綾、高岡、穆佐、倉岡の4か所があります。
特に高岡は今は宮崎市に編入され、中心部からのアクセスもそこそこよく、多くの遺構が残されています。
今まで二回ほど訪れて武家屋敷や門の撮影を楽しんだものですが、現地のガイドであるチラシには気になる文言が記載されていました。
今でこそ南九州特有での石垣に囲われた武家屋敷を楽しめますが、薩摩藩時代は幕末になるまで石垣が許されていなかったというのです。
【2.薩摩藩と辺境】
考えてみるに、薩摩藩やその系譜は辺境としての日向―宮崎地区に一段下の地位を与えていた歴史がありました。
外城の郷士と鹿児島の城下士は当初身分は同じ侍とされましたが、薩摩藩第8代藩主島津重豪によって藩内の身分や家格の整備が行われた際に、郷士は城下士より一段の下の位と位置づけられました。
また、幕末西郷隆盛と共に入水した僧侶月照は日向の法華岳寺に追放するという名目で、実際は日向国境で死罪に処す計画だったのは比較的知られた話です。
西南戦争当時、宮崎県は鹿児島県に編入されていましたが、戦後の復興において旧宮崎県域からの税収の多くは旧鹿児島県域の復興に使われてしまいます。この事から川越進らの分離独立運動が行われ、西南戦争時の扱いに不満を持った都城の人々の黙認もあり、宮崎県は再度独立を果たしたのです。
こう考えてみると、薩摩藩領の端で国境警備を担っている高岡に石垣が許されなかったのは、何らかの差別的な要素があった可能性があるのではないかと思えてくるものです。
【3.ちょっとした発見と考察】
ところが、しばらく見ているととある解説文に巡り合いました。
石垣が禁じられていた高岡は、家々の境界をどうしていたかというと、竹の生垣で囲い、横二段の割竹で固定したもので代用していたようです。
土塀や柴垣でもなく、メンテナンスに手間のかかる竹の生垣!
竹は放っておくと思わぬところからタケノコを突き出してしまう物です。生垣に使うような品種は孟宗竹のように太くもありませんので、食用にもあまり適さないはずです。
ただし、近世までの日本では竹はそれ以外に重要な役割がありました。
工芸品の材料、わけても武士と竹というと、矢の材料という側面があるはずです。
【4.竹生垣の役割と終焉】
矢に主に使われる竹というとその名の通り、ヤダケという比較的細めの品種があります。
比較的固いようで、尖った切り株をうっかり踏むとゴム長靴でも貫通してしまうほどだとか。
高岡という土地は行ってみると分かるのですが、曲がりくねった大淀川やその支流と山の間にあるやや不便な土地です。
現代は宮崎平野の市街地から簡単にアクセスできますが、江戸時代は同じ薩摩藩領は薩摩街道で山を抜けて都城盆地まで出ないといけなかったわけですから、補給がやや困難な前線基地と考えていいでしょう。
高岡麓の武家屋敷の竹生垣はこうした環境での国境警備に当たり、経戦能力を高めるために決められていたのではないかと考えられます。
外城の郷士と城下士の身分の差が固定されたのが幕政後期であり、それまで郷士への差別がなかったのならば当初から高岡に石垣がなかった事には、実用的な理由があったのではないかと推察できました。
幕末になって石垣に戻っていったのも、銃器が進歩し、また近隣の藩との外交問題よりも外国や長州征伐、討幕への動きなど、価値観がシフトしていく中、手間のかかる時代遅れな竹生垣を敢えて保持していく理由がなくなったからではないでしょうか。
なんとなく今まで外城制度に関して疑問に思っていたことが一つ解決したですっきりとしました。
いやいや、勉強し続けると思わぬ事に巡り合って面白いですねえ。