12/1秀吉が八代にやって来た展に行く

senri_gusuku2013-12-01

【1.夏の自然科学、秋の人文科学】
 夏の博物館と言えば、夏休みの子供向けに自然科学系の博物館は恐竜の展示にいそしむわけですが、人文系の博物館は秋が本格的な企画展のようです。
 南九州だとメジャーな鹿児島県歴史センター黎明館をはじめ、尚古集成館、そして都城島津邸ともに余所から教科書で見たような貴重な史料を呼び込んでくれて、文字通り時間と空間を越えた日本史の世界に誘ってくれます。
 こうした展示を見る時に忘れてはいけないのが、ポスターやチラシで告知される余所の博物館の展示です。

 さすがに西日本と言えども山陰・山陽地方や四国に行くのは大変ですが、近場の中九州くらいならば比較的気軽に行ける物です。
 そこで気になったのは、「秀吉が八代にやって来た」というチラシでした。

【2.秀吉と九州】
 秀吉と九州というと、来年の大河ドラマにもなる黒田官兵衛が秀吉の軍師で福岡藩主になったり、加藤清正の熊本城などが連想されますが、南九州とは因縁が深い相手になります。
 当時九州のほとんどを手中におさめかけていた島津義久、義弘兄弟ですが、天正14年(1586)7月からはじまる豊臣方の侵攻によって後退を余儀なくされます。
 天正15年(1587)5月8日豊臣本陣が設けられた川内平佐の泰平寺に停戦会談のため訪れた島津義久は剃髪した僧侶の姿で俗世への訣別と恭順の意を表し、その命と薩摩・大隅・日向の一部の所領の存続を認められたのでした。小田原合戦に伊達正宗が死に装束で参陣する有名なエピソードのおよそ三年前の出来事です。
 島津氏の縮小により、豊臣方の武将や、島津氏に九州を追われ秀吉を頼った鎌倉時代以来の領主である伊東氏、大友氏は旧来の土地である日向・豊後への復帰を果たします。大友氏はその後大名家としては取り潰されますが、伊東氏は日向飫肥藩として明治維新まで全うしたのでした。
 秀吉統治下も混乱は続きます。天正20年(1592)、秀吉は朝鮮出兵を開始しましたが、肥前名護屋城に向かうために肥後国佐敷に留まっていた島津氏家臣の梅北国兼加藤清正の朝鮮出征中の留守を突く形で佐敷城を占拠し、豊臣支配や朝鮮出兵に不満を持つ他の島津家家臣や農民たちと共に反乱(梅北一揆)を起こしたのでした。
 一揆は3日間で鎮圧されましたが、秀吉により島津歳久が首謀者とみなされ、兄の義久の追討を受け自刃し、島津家は限られた領地に対して厳しい検地が行われのです。
 検地により、九州征伐の時に秀吉に激しく抵抗し、足利尊氏以来都城盆地に根を張っていた北郷氏(後の都城島津氏)は8万石近い所領を取り上げられ、川内平佐に減封されてしまいます。北郷氏が都城に返り咲くには、都城を支配していた伊集院氏を秀吉の死後排除する庄内の乱まで5年の歳月が必要でした。
 秀吉の支配は島津氏の内部を大きく揺さぶりましたが、領内の豪族の所領替えをする事により島津氏の直轄領を増やし、大小の豪族が連合した中世の面影を残す戦国大名の組織を近世的な島津氏を中心としたピラミッドを構築する事になります。先に挙げた北郷氏は、足利尊氏から直接都城盆地北郷の地を与えられ、島津本家からも独立した客分として扱われていました。秀吉からも直接朱印状を貰っていたのですが、太閤検地以降、明確に島津氏の配下に組み込まれ、所領を保証するのは中央ではなく、島津宗家となったのです。
 秀吉は南九州に痛みを伴った近世への脱皮を促したのです。

 さて、八代は八代城の城下町であり、江戸時代は肥後熊本藩に組み込まれていました。
 熊本藩と言えば熊本城が有名ですが、一国一城令の江戸時代にあって島津氏の備えとして例外的に一国二城体制が許された特殊な環境にあったのです。
 上記の南九州史観と異なった歴史観が楽しめるはずです。
 12月1日までの展示でしたが、自動車の納車が前日の11月30日になったので、さっそく慣らし運転を兼ねた長距離ツーリングと洒落込みました。


【3.八代と秀吉】

 展示を見る前に驚いたのは、八代城ものがたりというパンフレットでした。
 いきなり表紙に秀吉の肖像画がプリントされています。
 八代は、秀吉がポルトガル人宣教師ルイス・フロイスと面会をした場所でした。フロイスはその著書『日本史』で以下のように八代の事を記しています。

この地がいかに美しく、清らかで、また優雅で豊穣であるかは容易に説明できるものではない。…その町へは、海路からではなくては入ることも登る琴もできないようになっている…

 秀吉とフロイスという全国史に知られた人物と外国に八代を紹介した人物の会談の場になった事は八代の方の大いに誇りするところのようでありました。

 さて、展示は鎌倉幕府追討の恩賞で名和氏が八代を得た時代から100年を過ぎた頃から戦乱の世が始まり、相良氏、島津氏と領主が変わり、秀吉の八代入りで平和な時代が訪れるまでを描いています。
 大友宗麟や竜造寺孝信、そして秀吉などの有名な肖像画をはじめ、大阪城天守閣慶応義塾図書館、東京大学史料編纂所など九州以外からも豊富に資料を取り寄せ、その中には国指定重要文化財が何点もありました。
 美術館ではなく、博物館のため文書など派手さはない展示がメインでしたが、八代を中心とする地域史と全国史を同時進行で描写する様と、合戦で犠牲になる庶民の姿をさりげなく織り込み、秀吉の恩賞など人心掌握術をきちんと展示し、秀吉による平和という展示の結びを説得力をもって構築しています。

 来館の方は熱心なかたが多く、子供たちは正解すると城主バッジがもらえるワークシート片手に熱心にメモを取り、大人たちも古文書の展示では説明文だけでなく、原文を読み取ろうとしているのが印象的でした。



【4.秀吉の夢の跡】
 個人的には秀吉に対しては時を追うにつれ、評価よりもマイナスの気持ちが強くなっていました。
 朝鮮出兵朝鮮人陶工や朝鮮人参など文化的に得る物はありましたが、平和な外交でも手に入れられるような戦利品しか残りませんでしたし、自分の子かも怪しい秀頼に家督を譲るために身内を犠牲にし持続的な政権を樹立できなかった事は、やはり徳川家康に比べると結果的には誤っていたと断じざるを得ません。
 ただ、全国統一を成し遂げた秀吉はやはり画期的だったのだとは再認識できました。
 酸いも甘いも飲み込むのが歴史を理解する事であります。
 秀吉を受け入れた過去の八代の選択は間違いではなかったのでしょう。ただ、はたして秀吉は最後まで平和の使者だったのか。
 まあ、ここらは地域史のヒーローに対するアプローチは複雑な物がありますし、史料を貸し出してくれた施設に対するリップサービスもあるのでしょう。
 
 見事な展示の高揚感と、自分自身の秀吉への思いを胸に渦巻かせながら、私は宮崎へハンドルを向けたのでした。