我胸の 燃ゆる思ひに くらふれば 烟は うすし 桜島山

 鹿児島に何回も行っていると市内の観光バスのアナウンスで流れるフレーズもいつしか覚えて行くものです。

 その中で印象に残るのは、島津家の別荘だった仙厳園を出て、石橋公園へ向かう際に海沿いの道で桜島を臨む際に読み上げられるこの歌です。
 幕末の志士が詠み上げたこの歌はいかにも勇壮で、目の前の桜島に圧倒されながらもそれよりも大きな日本の未来を背負っているようで、幕藩体制から国民国家へ脱皮していくヴィジョンが見えてきますね。
 ただ、実際に詠んだのは志に燃える薩摩藩士ではなく、平野国臣という福岡藩出身の尊皇攘夷の浪人でした。
 彼は西郷隆盛月照と縁があり、薩摩藩へ倒幕を勧めるのですが受け入れられず、失意の内に薩摩を去った時に詠んだのがこの歌でした。
 維新への情熱というよりも、薩摩藩との別れを桜島に仮託して詠んだ歌と解釈した方が適切かもしれません。

 振り返ってみるに薩摩藩は外様でありながら、徳川家との仲は悪いものではありませんでした。
 豊臣秀吉によって取り立てられ、領内で権勢を振るった伊集院一族を秀吉の死後討つことになった庄内の乱では徳川家は島津家に助力しています。関ヶ原の合戦も当初島津義弘は伏見城にこもる東軍に助力しようとする物の、家康から捨て石になるように命じられていた彼らは断り、戦地で孤立できなかった義弘はやむなく西軍についたようです。
 以前からの関係と薩摩隼人(実際には大隅人と日向人もいるわけですが、慣用句としてこうなります)の精兵さ、そして琉球貿易の利権などから島津家は西軍側にも関わらず所領は安堵され、江戸幕府とも蜜月を築きます。
 5代将軍綱吉の養女竹姫は5代藩主継豊の妻となり、8代島津重豪の娘茂姫は11代将軍家斉に嫁ぎます。そして幕末には13代将軍家定に11代島津斉彬の養女篤姫が嫁いだことは周知の如し。
 薩摩藩が幕末まで国替えも所領の削減もなかった事は雄藩への躍進をする上で大きな助けとなったことでしょう。
 また、諸大名家との関係もまた江戸時代的なもので結ばれていました。島津重豪は多くの子を作り、諸大名家に養子縁組みや嫁入りをさせましたが、これこそが情報ネットワークや維新を果たす際の軍事同盟の原型になったともいえるでしょう。じじつ、縁戚関係にあった東北のとある藩は、戊辰戦争の折りに数少ない新政府側として戦ったのでした。

 さて、平野は尊攘論者だったわけですが、尊皇攘夷思想の背景には日本神話や天皇を評価する復古的な国学思想が背景には必要です。
 今は黎明館という博物館に姿を変えている鹿児島城(鶴丸城)に面白い石碑が残っています。
 島津重豪が珍しい文物を集めて作った聚珍館を記念した石碑ですが、天地の創造をこんな風に記しています『天地がはじめて開け、太陽と月がこの世に現れて動植物が世界に広がった。神農(中国伝説上の皇帝)が現れて、多くの植物を薬と毒に区別した』
 世界の成り立ちはアマノヌボコを使ってイザナギイザナミが作った物という認識ではなかったのです。
 ちなみにアマノヌボコとされる物はレプリカが現存し、宮崎県高原町(今では宮崎県ですが、江戸時代は薩摩藩領でした)に頂きを持つ高千穂峰につきたっています。坂本竜馬は有名な薩摩への新婚旅行でいたずらでアマノヌボコのレプリカを抜こうとした事を姉への手紙に書いているくらいです。
 自分の領内にある日本神話の痕跡よりも中国の古典にルーツを求める姿勢は、後の倒幕や明治から戦前に掛けての天皇制国家観はまだ薩摩藩の上層部にもなかった傍証とも言えましょう。

 時代や価値観が変化するタイミングを見誤るとなかなか物事が捉えづらくなるものです。そう考えると徳川家と蜜月を築き、幕末は倒幕を成し遂げた薩摩藩は機を見るに敏であり、こうした変化に対応する姿勢が時代の先端を行く鍵なのだなと思わされました。