鹿児島国際大学の学内博物館 企画展『鹿児島城築城への道のり』

senri_gusuku2014-07-22

【1.大学へ行こう!】
 黎明館での企画展を見ていると、興味深いタイトルの企画展が鹿児島国際大学の学内博物館で行われているというので、日曜・祝日の公開日である7月20日に早速訪問してみました。

 学内博物館なのでスペース的には高校までの教室よりも少し狭い位のスペースですが、薩摩鹿児島地区の島津氏の城郭の変遷がまとめられています。


【2.島津の居城、居館】
 伝説によると、島津氏の初代の惟宗忠久は、薩摩・大隅・日向の三国にまたがる島津荘の下司職(荘園の管理人)に任されると、薩摩国の山門院(やまといん、現在の出水市の一地区)の木牟礼城(きのむれじょう)に入り、その後日向国都城盆地の堀之内や祝吉に御所を建てて移り住んだと言われています。

 同じく出水の箱崎八幡宮では、山門院に下向する途中の島津忠宗が博多沖で嵐に遭い、後悔の無事を博多の箱崎八幡に祈り、無事到着できたのでこの地に勧請したとの由緒があります。また、宮崎市の去川と呼ばれる関所跡には、島津忠久が植えたという樹高40メートルを超える大イチョウが推定樹齢800年の今でも自生しています。
 ただし、これは伝説にすぎず、出水市の木牟礼城跡の看板には忠久の代官が下向してきたと記載されています。

 また、初代の忠久は都の行事にも多く参加しており、実際に島津氏が南九州に根付くのは、3代久経が元寇の戦いに際してではないかと言われています。
 面白い事に、出水の箱崎八幡にはもう一つの由来があり、元寇の役のさなかである弘安四(1281)年夏、箱崎の津に久経がいた縁から所領である薩摩に勧請したとも言われているのです。

 さて、今回の鹿児島国際大学の展示で触れられている一番古い城は薩摩の鹿児島地区にある東福寺城となります。
 それ以前の城や居館はこのように曖昧です(木牟礼城の看板は忠久の代官から5代貞久まで島津氏は木牟礼を拠点にして薩摩を支配したと書かれています)。都城盆地の御所にも、とうぜん代官を派遣していた可能性はあります。しかし、その後比企能員の乱に連座した惟宗氏が承久の乱を経て南九州に復権したときの支配地域は薩摩一国に留まっておりました。都城盆地が再び島津氏の影響下に入るのは、4代忠宗の息子たち『七人島津』の北郷氏や樺山氏の都城盆地の土着、そして彼らの所領拡大がされる戦国時代中期まで待たなければならないので、祝吉と堀之内に関しては資料も残っていないのでしょう。

 余談ですが、島津氏の文書では、初代忠久と2代忠時の文書は惟宗か藤原の性を名乗ることが多く、島津荘を本貫地として意識した島津名乗りを始めたのは忠時以降というのを黎明館の企画展で読んだような気がします。
 島津名乗りがやがて薩隅日の3カ国の太守という意識を島津氏に持たせ、それが鎌倉幕府討幕の動きや、室町―戦国時代の日向方面への所領の拡大や、江戸時代の日向国絵図を幕府に献上する際に他藩との共同作業の拒否などに繋がっていくのですが、それはまた別のお話になります。


【3.三つの城】
 だいぶ話がそれましたので戻しますと、今回の展示は東福寺城から清水城、内城を経て鹿児島城の築城に至るまでの流れを出土品やパネル展示、そして学生の作成したジオラマやイラストをメインに展示しています。
 以下、メモしてきた内容と推測をつらつらと。

 まずは東福寺城から。
 東福寺城は、鹿児島市清水町の海に面した丘陵(異人館から稲荷川河口まで)にある城で、文保3年(1319)の記録に記述されたのがもっとも古い記録となります。
 地頭島津氏の管轄下におかれていたと思われるが、南北朝時代南朝方の肝付兼重らを迎え入れ、北朝方の島津氏と戦っていました。
 暦応4(1341)年に5代島津貞久が攻め落とし、7代元久(奥州家)が拠点を清水城に移すまで島津氏の拠点でした。
 ここで気になったのは、島津奥州家の所領は大隅だったにも関わらず、拠点になった東福寺城は薩摩側の鹿児島にあったことです。
 律令時代に定められた大隅国の範囲は、現在の国分など錦江湾奥地の沿岸の開けた場所も含まれており、当時はここが大隅の中心地でした。『国分』の名の通り大隅国国分寺、そして大隅国一宮である大隅八幡宮(現在の鹿児島神宮)がおかれています。なんとなくここに城を構えればいいように思うのですが、総州家への対抗なのかはたまた比企能員の乱以降は島津氏は薩摩一国の守護だったので島津氏としての拠点はあくまで鹿児島と言ったところでしょうか。
 ちなみに、律令時代の薩摩は、中心地が川内とされ、ここに国分寺や一宮である新田神社もおかれています。前述の通り、島津忠久の南九州初の居城が出水市にあるように、都から船で行きやすい北薩が重要地点でした。ここから本拠地が鹿児島へシフトしているのは、薩摩と中央との関係よりも薩隅日の三州へ目が向いたからではないかと愚考します。

 続いて清水城。
 清水城は現在の清水中学校が居館跡、そして裏手の丘陵が城郭としての役割を持っていました。
 7代元久は、三州守護の地位を得て日向の志布志城から鹿児島に戻り一度は東福寺城に入りますが、手狭なため、清水城に居館を移しました。
 当城は、14代勝久に至るまで150年継続して本城と称され名実ともにその役割を果たしてきたのです。
 南東を稲荷川に、西北は急激な崖に面しています。
 稲荷川河口は港が形成されたようであり、海運を通じた交易・防衛に地として選ばれたと思われます。
 東福寺城と清水城を並べてみて、最近似たような城をみたと思ったらNHKの『英雄たちの選択』で見た最新の復元CGによる清洲城でした。
 桶狭間の戦い当時、清洲城は中央に川が流れた城だったとか。
 真ん中に川が流れているのは連携を取りにくいものですが、片方が敵に敗れてももう片方で戦闘を継続できるのが強みだったとか。
 東福寺城と清水城も前者が曲輪や二の丸、後者が本丸として機能するように考えられていたのではないかと推測します。
 またまた『英雄たちの選択』ネタですが、甲斐の武田氏のつつじヶ崎の館は大きな川に面しておらず、防衛も交易も不利だったため、武田勝頼釜無川に面した新府城を築城・移転したと磯田道史先生は言っていましたが、島津氏は武田氏に先立つこと200年以上前から川を居城の防衛や交易に役立ててきたわけです。ちなみに、清水城よりも12年早く築城された都之城もまた大淀川にほど近く天然の水堀を備え、河川交通もおそらく利用していた事でしょう*1

 最後に、内城。現在の大竜寺小学校です。これは15代貴久が天文19年(1550年)伊集院一宇治城から移った模様ですが、跡地に当たる小学校もあまり大きくなく、どうしてここに移転したのかは解説もなくわかりませんでした。ただ、稲荷川からはそんなに離れていませんし、一国一城制度の前だし薩摩藩時代の外城制度を思えば、清水城と東福寺城があるから居住性が良く、城下町も作れる平地に移動したのかもしれません。


【4.おしまいに】
 展示自体はシンプルなものでしたが、島津氏の研究としてはやや常識になっているところもあるせいか、今まで博物館などで学ぶ機会がなかったためいい勉強になりました。
 特に今までの知識と付け合わせてイロイロ推測すると見えてくるものが増えてくるので、楽しいものです。
 もうカレンダー通りの開館しかしていませんが、興味のある方は是非見に行かれてはいかがでしょうか。

*1:宮崎平野までのスムーズな移動は江戸時代の観音瀬の掘削まで待たなければなりませんが