都城唐人町の夢

senri_gusuku2014-09-21

今週のお題「秋の気配」
【1.桜の春と秋】
 桜が散るのは早い。
 春の花でそれを実感させられ、8月も下旬にさしかかった頃、葉桜がまばらになった事でそれを実感させられる。

 曼珠沙華が赤く咲く彼岸頃になると、俺が趣味で巡っている博物館も一斉に秋の特別展や企画展に向かって動き出す。
 そんな訳で、都城島津邸の秋の公開講座の一環『倭寇都城唐人町』まで行ってきた。

【2.都城とはなんぞや】
 都城というと聞き慣れない方が多いと思う。
 俺も引っ越してくるまで知らなかったが、宮崎県第二の都市にあたり、県内では比較的栄えている地域の一つになる。
 特筆すべきはその歴史の連続性だ。室町時代に幕府に知行された守護大名は戦国の洗礼を受け、ある者は滅ぼされ、生き延びた者も秀吉や家康などの天下人からの命令で知行地を変えさせられたり、滅ぼされたりしたものだが、都城はその例外に当たる。
 都城を近代まで治めたのは、北郷(ほんごう)家。江戸時代初期に都城島津家と名を変えた島津家の分家だ。初代の島津資忠が室町幕府初期に足利尊氏に島津宗家ともども味方し、都城盆地の一部である北郷の地を知行され、地名を名字とした事がそのスタートとなる。戦国末期には都城盆地全域を支配し、以降、13年ほどの空白期間はあるが、幕末まで薩摩藩内の私領主として500年以上この地を支配していたのだ。
 薩摩藩の一部だっただけに、今公開中の映画『柘榴坂の仇討ち』で題材になっている桜田門外の変井伊直弼の首を落とした有村次左衞門が住んでいた家の跡地なんかもある。

 戦前は薩摩藩の一部だった恩恵や、宮崎県域には大きな藩がなかったおかげで県内では一番栄えた土地だった。
 なお、講座を主催する都城島津邸は、明治から平成の初期に当たって同家が住んでいた邸宅を譲り受けた都城市が、都城島津家の資料を元に都城の地域史を展示する社会科学系の博物館である。

【3.興奮! 歴史講座】
 いささか都城語りが長くなってしまったが、講座の密度はすばらしかった。倭寇の成立とその背景となる宋の海禁政策足利義満による勘合貿易、鉄砲伝来の主役のひとり倭寇の王直(五峯)など、歴史番組では数本のばらばらなテーマになりそうな物を一つにまとめ上げる手際は見事。
 南九州の地域講座としても抜かりはない。平戸や五島列島に王直の日本側の拠点があった事や、南九州各地にあった唐人町や貿易拠点を写真で紹介し、最後は都城にあった唐人町の紹介で締めくくるのはニクい構成だ。

 宮崎は陸の孤島のようなもので、新幹線も通っていないし、大分・熊本にも県境を接しているが、手軽にすぐ行けるのは鹿児島くらいの物だ。その鹿児島だって、鹿児島市街地をのぞけば辺鄙な土地である。
 しかし、海上の道からみれば、台湾ー琉球列島からの航路の途中にある南九州は中世から戦国時代は国際都市だった事を改めて示され、静かな興奮を胸に宿らせてくれたのだった。

【4.南九州の未来】
 とはいえ、今は中国とは政冷経熱だが、動力化された船舶は寄港地などを求めずに工業地帯や港湾都市をまっすぐに目指す。
 今後沖縄や南九州が交易で栄えるとしたら、一応それぞれには希望がある。前者は、今進められている沖縄のハブ空港化だ。香港やシンガポールの富裕層が求める品質の高い日本製品を首都圏から沖縄経由で極めて早く送り届ける海外貿易である。後者は地味なものだが、東九州道の大分までの開通だ。大分は四国や中国地方行きのフェリーが出航するから、宮崎や大隅地区をはじめとする鹿児島の産物をより多くの地域に販売する国内交易の可能性があるのだ。
 ただ、一番劇的なのは、昨年の初秋に内之浦で打ち上げに成功したイプシロンロケットによる安価な宇宙輸送手段の獲得だろう。奇しくもロケット基地である種子島内之浦も、かつては倭寇や南蛮船の貿易の寄港地だった。400年の過去の跡は未来に繋がっているのだ。
 数十年後の南九州地区が宇宙との交易のハブとして栄えている姿を妄想するのは、秋の夜長に見る夢としては罪はないだろう。