宮城県白石蔵王紀行

senri_gusuku2014-08-12

【1.電網のつなぐ知識】
 娯楽の少ない宮崎に越してきてはや3年8ヶ月。
 慣れない家計の切り盛りに趣味に費やせるお金はカツカツになってしまい、気が付くと趣味はすっかりネットサーフィンになってしまった。
 救いともいえるのは、楽しみの中にWikipediaの確認があった事だ。雑学好きな私としてはネットサーフィンの中でもかなり有意義な時間を過ごすことができた。
 有名だが表舞台から名前を消した戦国武将の名前を調べると、意外な事に子孫が生き延びていたりして新たな発見がある。
 たとえば、戦国大名として名高い織田家小牧・長久手の戦い以降は歴史の表舞台から名前が消えて、子孫がフィギュアスケート選手として急に現代に現れた印象があるが、本家が東北に小藩として根を張り、分家も存続していたのは意外な発見だった。滅亡したはずの小田原北条氏は大阪の狭山にやはり小藩として生きながらえていたのは、東京にいたときに何度か小田原城を訪れていたので嬉しかった。

 しかし、Wikipediaで何回も食い入るように読んだのは、日本史ファンに人気の高い真田信繁もまた血脈が存続していたという事実だった。
 信繁のエピソードが語られるとき、大阪で討ち死にし、嫡男の大助(幸昌)も落城とともに自害した事で幕を閉じるものだ。その後は秀頼を伴って鹿児島に落ち延び、鹿児島県の雪丸という地名は幸村が転じたものだとか、伝説の世界へ突入していくのである。十勇士など忍者を従えていた信繁らしいグランドフィナーレ。
 しかし、史実はこれを上回る展開を見せているからおもしろい。
 大阪城落城に際して、信繁は敵である伊達家の家臣である片倉小十郎景綱に次男の大八と三人の娘を託し、その血脈は現代まで続いていると言うのだ。

 その仙台真田家の伝来品が4月から8月末まで宮城県蔵王町で展示されているのだという。夏期休暇がとれた私はふるさと東京を中継地点にして、早速の東北旅行としゃれ込んだ。


【2.北へ。白石蔵王!】
 ひたすら眠い。
 郷里の東京郊外から、目的地の最寄り駅白石蔵王までは新幹線を使って2時間半。それから1時間に一本のバスに1時間揺られて合計4時間の旅路を経て、蔵王町文化ホール(ございんホール)に到着となる。
 余裕をもって旅先を見回るため、六時に起きたのはいいが、早朝からの移動はなかなか身に堪える。目が霞む中、大宮で東北新幹線に乗り込んだ私は、福島で再度東北新幹線に乗り換えた。
 なぜやまびこからやまびこに乗り換えるのかというと、白石蔵王東北新幹線のために設置された駅だが、止まる新幹線がまばらだからだ。
 なるほど、駅から見える外の風景は住宅ばかりが広がり、馴染んだ西都城の駅前が少し綺麗になった程度だった。

 とはいえ、駅の内装はさすがに綺麗なものだ。
 志布志線が廃線になったお陰で大きな待合室を閉鎖して持て余し、撤去されたキオスクの跡も寂しい西都城とはさすがに違う。
 バスに乗って在来線の白石駅前を通った時、頭の中では完全に西都城と白石を比べる気分は失せていた(ただし、白石市の人口は6万2千人、都城市は17万近くいる)。
 バス会社は宮城交通のため、略称は宮崎交通と同じく『宮交』の標識なのはおもしろい偶然だったが、東日本特有の山の形や木々の姿に南九州とは違った懐かしさを覚える。

 川は大規模な護岸もされておらず、自然が豊かなため釣り人の姿も目立つのは、梅雨や台風の大雨で水害との戦いを宿命づけられた南九州ではあまりお目にかかれない風景だ。
 宮崎との違いを感じているうちに1時間のバス旅は終わりを告げ、蔵王町文化ホールに私は到着した。

 意外なほど綺麗な建物は、震災前の2010年からあったという。
 入り口にほど近いワンコーナーが目指す特別展の会場だ。はやる気持ちを抑えながら私は、コインロッカーに向かい、クリップボードをはじめとする筆記用具、そして秘密兵器を手に会場へ向かったのだった。


【3.対面! 本物。】
 会場に入ると、実際に真田信繁大阪冬の陣で着用していたという南蛮胴の甲冑が!
 ひとしきり眺めた後に、展示内容を見回してみると、意外と充実している事が分かった。展示品の点数は大きな博物館の企画展に比べれば少ない。ただ、キャプションのパネルの充実はなかなかの物で、用意した秘密兵器が役に立ちそうだった。
 私は、アウトドア用の三脚の折りたたみ椅子を広げるとキャプションの書き写しを開始した。
 参考文献やインターネットを漁れば分かるような事が書かれているかもしれない。だが、白石蔵王は宮崎からあまりにも遠いのだ。そして企画展というのは限定の展示ゆえに埋もれていた資料や、その時の最新の研究が発表される事がある。なにより、知ったかをしているよりは謙虚に書き写している方が、見えてくる物の深みが違ってくる。

 信繁の子である大八がどのような生涯をたどったのかはwikipediaなどを検索していただくと詳しく載っているので、そちらに譲るとして、何点かおもしろいと思った点をピックアップしてみたい。

・成人した大八は真田守信は、のちに幕府をはばかり片倉守信を名乗った。真田家ははじめ藏米取りと言われる、藩から禄米を支給される形式での主従関係を結んでいたが、後に現在の蔵王町となる刈田郡矢附村、曲竹村など現宮城県南部と、現宮城県北部石巻市栗原郡など360石の所領を与えられた。仙台真田家は代々矢附村に在郷屋敷を構えた。

 江戸時代の武士は城下町へ移住して藩から禄米をもらってサラリーマン化し、土着性をはぎとられた印象を抱いていたのですが、薩摩藩の私領主や郷士以外にも、仙台藩に土着性を保持し続けた武士が江戸時代も存在していた事は私にとって目から鱗でした。

・所領が南北に分けられているのは伊達家中では一般的なことであり、これは片方の所領が不作でも、もう片方の所領で収穫を確保できるからである。

 風土の厳しい東北仙台藩ならではの知恵が見て取れます。ただし、薩摩藩が領内の有力な諸家に島津宗家から養子を送り込んだり、地頭制度を外城に土着した居地頭制度から城下町に住まわせる掛持地頭制度にしたように、所領を一カ所にまとめない事で支配下の武士の力を弱めようとした要素もあるかもしれません。このあたりは仙台藩の歴史をあまりにも知らないので邪推かもしれませんが。


【4.そして時は動き出す】
 さて、今回の展示ですが、後ろ半分は幕末に活躍した信繁の子孫喜平太にスポットを当てています。
 以下、また要約。
真田信繁から数えて10代の真田喜平太の時代に幕末を迎えた。
 喜平太は、当時最先端とされた西洋式砲術をきわめ、講武場で洋式砲術の師範役を務めた。彼の目には旧態然とした仙台藩の体制は改革の対象に映り、二十二箇条に及ぶ改革案を藩主に提案したが、守旧派重臣に受け入れられず、給頭頭(下級藩士の部隊長)を免職になる。
 なおも建言をする喜平太は自らの意見が容れられないのならば、自分を使う意味がないので講武場の師範を免職にしてほしいと訴え、結果として免職になった。
 戊辰戦争で当初新政府側の先鋒になった仙台藩は、藩参政に喜平太を押し立てた。喜平太は、新政府軍司令の世良修造に廃藩置県を提言し、また会津を短期間で降伏させて新政府での仙台藩の貢献を示すつもりだったが、世良は横暴がたたり暗殺され、東北諸藩は旧幕府側に傾いてしまう。打つ手がなくなったことを悟った喜平太は職を辞すが、旧幕府側に立つ仙台藩は彼の能力を必要としていた。戦局が不利になる中、藩主伊達慶邦公の要請により喜平太は再び戦場に赴き、先祖と同じ六連銭を掲げて幕末最後の戦いを駆け抜けていった。

 喜平太の孤立した姿を見るに、彼は遅く生まれた仙台の吉田松陰か、はたまた仲間に恵まれなかった薩摩志士かと思います。
 もう少し周りに引き上げてくれる人や仲間がいればと思われてなりません。
 幕末が来て急に薩長土肥に維新志士が誕生したわけではありません。薩摩藩調所広郷による財政改革があり、島津重豪、斉彬の蘭癖琉球貿易などあらかじめ改革を受け入れる余地がありました。また、長州藩関ヶ原五大老家から防長二カ国の36万9411石に押し込められ(それでも、新田開発の成功から、貞享4年(1687年)には81万8487石余を生産しており、幕末にはもっと増えていたと言われます。また、この石高より小さな大名は多数いました)、江戸時代初期から徹底した文書主義による内政改革や村田清風による財政改革など、変化の中に身を置いてきました。
 そして薩摩は家老小松立帯刀、長州には祐筆の添役である周布政之助など、藩主以外にも藩の実力に認められてこそ、藩の近代化が成し遂げられた事を忘れてはならないでしょう。
 旧体制の打破を叫ぶ幕末の志士を見ると江戸時代は価値のない時代のように見えますが、彼らもまた連綿と続く江戸時代の遺産や経験、そして体制の上で明治維新は成し遂げられているのです。


【5.おしまいに】
 さて、折りたたみ三脚椅子を持ち込んでのメモ取りだったが、睡眠不足と意外な分量にこの日では終わらず、翌日のリターンマッチを経てやっとメモを取り終えたぞ。
 真田信繁という南九州に来る前からの関心で蔵王町を訪れたのに、江戸時代の理解の仕方にすっかり南九州で身に付けた物の見方が根付いている事に自分でも驚いている。
 南九州へは完全に出稼ぎ気分だったけれど、意外と学問の分野でも考察力を身に付けられていたのはダメ学生だった私としては救われた気分である。
 これを機に大学院生への進学を……などと思わなくもないけれど、ここまで勉強できたのも社会人マネーがあればこそ。あまり余計な事は考えない方がいいだろう。
 仕事と趣味や学問と両立はなかなか難しいけれど、それでもかすかに得られた物を倍増させて進めるのはいいものだ。