薩摩藩の郷と地頭仮屋

【1.はじめに〜宮崎県と島津家〜】
 江戸時代、日向国と呼ばれていた宮崎県は、南西部1/3を薩摩藩が支配していました。薩摩藩領には、現在県内第二の都市である都城や、宮崎市西部の高岡町、綾町(独立した自治体で宮崎市の北西にあります)が含まれており、都城には分家の都城島津家(室町時代の初期に成立し、江戸時代初期まで北郷を名乗っていました)がいました。
 では、日向側の薩摩藩領は都城島津家に委任されていたのかというとさにあらず。
 高岡や綾は地頭の治める外城(とじょう)と呼ばれる薩摩藩の直轄地であり、都城島津家は藩内の古い領主家、すなわち私領主という扱いでした。
 権限を持った身内だけど鹿児島の本家から支配を受ける都城島津家と、そして他の地域では耳慣れない地頭・外城制度というところが、薩摩藩とその日向地域における支配体制を理解するキーワードと言えそうです。


【2.うってつけの講座】
 さて、こうした薩摩藩のややこしい統治体制に関して先日鹿児島城(鶴丸城と地元の方は通称されますが、鹿児島城が正しい呼び名らしいです)跡地の黎明館で講座があるとの事でしたので、早速行ってきました。
 講座名は、「薩摩藩の郷・麓・地頭仮屋」。
 この講座、素晴らしいことに薩摩藩の統治体制についてしっかりと教えてくれたばかりでなく、それまでに学習して来た事と併せると新しい視点が手に入りました。
 そんなわけで、ここでの記載内容は、講座で知った事と、それまでに得た知識など私の視点が多分に入った物であり、必ずしも講師の物ではない事をお断りしておきます。

①郷・外城・地頭仮屋とは
 さて、では外城制度とはどのような物だったのでしょうか。
 外城とは、大名が政務を執行する本城の防衛拠点である支城を中心に武家屋敷など行政区画を設けた物を地域の事です。
 支城自体は慶長20年(1615年)の一国一城令とともに廃止されましたが、その支城跡(日向だと天ヶ城や綾城など)は城山もしくはお城と呼ばれ、有事の際には軍事施設として利用されるように備えられていました。
 こうした外城は薩摩・大隅・日向におよそ113カ所(時期によってばらつきがあります)設けられました。その立地は交通上の要衝に当たり、主要の街道に沿うか、河海の船着き場を備えていました。
 小規模な物は武家屋敷10軒〜3・40軒程度のサイズだったといわれています。

 こうした外城を預かり、支配していたのが地頭でした。
 他国では郡代または代官と呼ばれるべき彼らは、当初はその土地に住む居(い)地頭という制度でしたが、問題が起きます。
 大阪冬の陣・夏の陣で薩摩藩はこの地頭たちを統制しきれずに出兵がままなりませんでした。
 このため、寛永の頃(1624〜1645年)から地頭を鹿児島城下に住まわせ、支配地域の変更である『所替(ところがえ)』も行う掛持(かけもち)地頭制度へと変化させ、独立性や地域とのつながりを弱める策がとられました。甑島や長島は例外的に現地に住まう事になりましたが、これは移(うつり)地頭と呼ばれるようになるのです。
 ただし、掛持地頭制度といえど支配している以上は、現地を視察する必要があり、また現地で政務を行う者が必要です。
 あくまで鹿児島城下に住むはずの地頭が一時的に逗留すべき屋敷との事で地頭仮屋・領主仮屋という施設が現地での拠点として作られていたのです。
 また、地頭仮屋は、藩主が領内を巡見する際の休憩所・宿泊所も兼ねていました。
 外城での地頭仮屋周辺を特に麓(ふもと)と呼びます。これは府下(ふのもと)が転じた言葉と言われています。

 やがて、平和な時代が続き、外城はすぐに城郭として復旧させる必要がない事や、周囲に百姓や町人・漁民が住んでいった事から郷と名前を変えていきます。

②地頭という呼び名
 さて、地頭という呼び名は、日本史が好きな方ならばご存じの通り、源頼朝義経を捕縛する名目で全国各地に武家を配置した制度がルーツになっています。
 薩摩藩では、初代島津忠久源頼朝の隠し子だったという伝説があり、これに倣って地頭と名付けたとされています*1

 ただ、『地頭』という名称が薩摩藩独自の物かというとさにあらず。
 お隣日向の飫肥藩もまた『地頭』制度を持っていたようです。
 伊東氏は、元々工藤という氏族が伊豆の東に居着いたため伊東を名乗り、その後伊豆の蛭ヶ小島に流されてきた頼朝に協力して平家打倒をしています。
 伊東氏のルーツもまた鎌倉時代にさかのぼれるのです。
 鎌倉以来の領主では一般的な使い方なのか、南九州特有の言い回しなのかは、他の藩や飫肥側の資料と比べて見るべきですね。

③外城制度と徳川幕府
 さすがに城は壊されていますが、城跡付近に武士を大量に居住させているのですから、幕府も不審に思います。
 現代の我々は、城というと天守閣や土塀に石垣そして堀を巡らせた典型的な姿を連想しますが、それだけが城郭を形作る要素ではありません。
 例えば、周囲を流れる天然の河川は堀として機能するように計算されますし、周辺の土地を押さえられる拠点を選んで築城されます。
 島原の乱では廃城になった原城跡に一揆勢が立てこもり、鎮圧にはかなりの長い時間がかかったことを考えるに、城跡というのも要塞としてきちんと機能するものなのです。
 元和元年(1615年)の一国一城令に背くのではないかと幕府の巡見使に問いただされた国家老の川上久国は以下のように弁明しています。

・島津家は一時期九州の大半を支配するほどだったが、秀吉によって薩摩・大隅の二カ国に封じられた。その際に当時の当主島津義久を慕う者たちが二カ国に殺到した。
・薩摩・大隅は山がちな土地で田畑が少なく、食糧不足になった。
・このような事情の中、城を破壊して堀を埋めようとすると、土質がシラスのため土砂崩れが起き、数少ない田畑が潰れてしまい、ますます食糧難になる事は想像に難くないため、古城を破壊しきれない。

 このような苦しい説明の中、幕府の巡見使の憐れみを請い、なんとか外城制度は黙認されたと伝わっています。


④外城の郷士
 さて、支配制度に目を向けていましたが、外城制で統率される武士たちはどうだったのでしょうか。
 薩摩藩士は主に3つのカテゴリに分けられます。
 第一は、鹿児島に住む城下士。鹿児島衆中とも呼ばれ、平均の禄高は、78石9斗余り。当初は郷士と同格でしたが、江戸中期から別格となり、誇りをもつようになります。
 第二は、郷士もしくは外城衆中と呼ばれる外城の武士で、平均の禄高は4石7斗余り。この禄高だけでは生活もままならず、半士半農の生活を送りました。城下士からは一日兵児(ひしてへこ、1日が武士、1日が百姓)と言われ、軽視されていました。天保の頃に薩摩藩を訪れた江戸の講釈師も、彼らの姿はまるで百姓のようだったと書き残しています。
 第三は、私領主の家来である家中士です。彼らは郷士よりも一段と低い社会的待遇を与えられ、禄高の平均は4石余りでした。
 郷が113箇所にも分断されていたのは、反乱の抑止のためだと明治時代に鹿児島を訪れた長岡藩士は断じています。たしかに薩摩藩領では他藩と違い、城下町の鹿児島しか大都市は明治当初は存在しなかった模様です。

 こうした待遇の差から、一つの事実が浮かび上がります。
 西郷や大久保は貧しい身分から努力して出世をしたということで鹿児島では賞賛されています。確かに彼らは78石も貰っている家系ではなかったかもしれませんが、少なくとも鹿児島城下に住まい、郷士ではなかったのです。
 よく維新の英雄の偉大さが讃えられますが、彼らのスタートにもある程度幸運がありました。
 琉球を含め72万石の大藩・薩摩藩の生まれであったこと。
 薩摩藩琉球を通じて海外の事情に通じていたこと。
 調所広郷により藩の借財が返されていたこと。
 島津斉彬という開明的な藩主がいたこと。
 そして郷士ではなかったこと。
 こうした複合的な要素があり、郷士や他藩の武士まで視野に入れれば、スタートラインすべてが不利だったわけではありませんでした。


【3.最後に】
 外城制度を見ていくと、教科書で学ぶような全国的な歴史の流れと、地域史の実体が異なっている事に気づかされます。
 郷士達は必ずしも兵農分離が徹底されていませんでしたし、外城制度自体は黙認された物の実体は要塞の保持であり、一国一城令の違反ではあります。
 制度の抜け穴やこうした一面的ではない江戸時代の一側面を見ることが出来たのはなかなか興味深いものです。

 また、薩摩藩の国内の支配体制についても興味深いところが出てきました。
 島津家は鎌倉時代以来の守護大名から戦国大名になり、明治の廃藩置県まで存続しましたが、内部では領国の安定のために思い切った分断や差別が必要だったわけです。
 これ自体は、戦国時代に肝付氏を従えたり、豊臣政権の後期に庄内の乱で重臣の伊集院氏を制圧した経緯から、薩摩藩領自体が大小多数の豪族を従えていて見かけほど当初は安定していなかった事が挙げられるでしょう(ただしこれは、秀吉の後継者を巡って徳川家康石田三成の争いになったりと、時代が安定していなかった事を無視してはなりません)。

 ただし、内部の格差や差別構造はときとして社会を維持させるために必要な場合もありますが、ひと時非常事態になると国の分断を招く原因ともなります。
 西南戦争の折りも、当初西郷の動きを探る密偵が政府から派遣されていましたが、彼らは城下士ではなく、郷士の出身だったようです。また、城下士はことごとく西郷サイドに立ちましたが、郷士は政府側だったようです。
 外城制度も戦国時代の遺物でありましたが、時代とともに差別を進めるのではなく、より平等な社会を目指していけば、また違った南九州世界、ひいては近代日本が出来ていたかもしれないとも感じさせられました。

*1:ただし、実際のところ島津忠久近衛家に仕えていた惟宗の家系の出であり(南九州に領地をもらう前は惟宗忠久と名乗っていました)、頼朝との関わりは、母親が頼朝の乳母の子供だったようです。