宝暦治水の日向松

 江戸時代の宝暦4年から5年(1754〜1755)、薩摩藩江戸幕府の命令で濃尾平野を流れる木曽川長良川揖斐川木曽三川の分流工事を行いました。

 工事中に多くの薩摩藩士が自害、病死をし、総指揮を執った家老の平田靭負も自害をし、薩摩藩はその後工事費用の返済のため領内に重税を課すことになった工事でもあります。

 この工事で設けられた分流提に松が植えられ、千本松原と呼ばれています。
 ただ、この松が不思議な事に『日向松』と呼ばれているのでありました。

 昨年くらいに鹿児島県歴史資料センター黎明館で宝暦治水について学んだ時、不思議に思ったものでした。宝暦治水に動員された人々の中には、薩摩・大隅の武士だけではなく都城盆地宮崎市高岡町の外城士や私領の家中士がいたのではないか。
 当時の薩摩藩領を考えると不思議ではない話です。

 最近手にした古写真のパンフレットで気になる物がありました。
都城・小林・えびのの昭和」と題された戦前や昭和のモノクロ写真を中心とした本の広告なのですが、以下は昭和13年の写真のキャプションです。

宮崎県日向地方で伐採されるアカマツは、「霧島松」とも呼ばれ、床柱や造作材、将棋盤などに用いられた。写真は、伐採した日向産の松の丸太(長さ約7メートル、直径約1メートル)を高原駅前へ運ぶトロッコ

 
 材木店のページを見ると、霧島松は日向松とも呼ばれているらしいのです。
ウッドショップ 関口

 ただし、宮崎県日向地方という記述がどうも引っかかるものです。
 日向というのは宮崎の旧国名でもありますが、現在は県北に市町村合併で出来た日向市がありますので、県北部を指していると思われます。

 別の材木店のページでは、霧島あか松と日向松は別だと表記されています。
森のかけら

 混同されるケースもあるようですが、その場合でも日向松のグループの中で霧島あか松・霧島松は分けて考えてもいいでしょう。
 だとすると、薩摩藩士にちなんだ松なのに千本松原で霧島松と呼ばれないのはなぜなのか、疑問が残ります。
 そんな中で検索を進めていくと、次のページにヒットしました。
千本松原〜日向松の由来

薩摩藩士たちが、油島の背割堤に植えた松は、日向松(ひゅうがまつ)でした。日向松は文字通り、宮崎県産の松です。 1,000km 以上隔てた岐阜と南九州を行き来するには当時の交通手段では、片道25日間、往復50日ぐらいの日時を要したと思われます。
 
松苗なら美濃地方でも調達できたはずなのに、資金が底を突き一両の余裕も無かった中で、わざわざ駄賃を使って何ゆえ遠方から松の苗を運んだのか。小説『霧の木曽三川淵』の著者・瀬戸口良弘氏は、幕府の役人が『薩摩より松苗を持参致して植林を致せ』と下命したのに違いないと推測しています。そして、なぜ日向松なのか?
 
美濃から薩摩に行くには、陸路を徒歩で関ヶ原〜滋賀〜京都を経て大阪に行き、大阪からは船(帆船)で細島港(現在の宮崎県日向市)着、細島から再び陸路を徒歩で、西都〜都城〜国分〜鹿児島着の道順がありました。
 
瀬戸口氏は、以下のように推測します。松苗を採取しに国許に向った小奉行ら一行は、大阪から細島港に到着すると、佐土原藩(現宮崎市)国家老の屋敷に宿泊することになり、思い切って松苗のことを相談しました。
 
島津藩とは親戚筋に当る佐土原藩は、今回の美濃の治水工事の下命を気の毒に思っている矢先でもありました。すでに時間的余裕はない、しかも資金も底を突いている状況を察した佐土原藩国家老は、佐土原藩士に命じて細島港までの道中の道端に自生している山苗を採取させ、細島港より桑名城下の『七里の渡』に直接積で運ばせたというのです。薩摩藩士たちは、届いた松をホロホロと泣きながら植林しました。


 推測とされていますが、佐土原藩士が採取した松苗だったとされています。佐土原―細島間に自生していた松は霧島松・霧島あか松ではなく、日向松でしょう。
 日向の薩摩藩士が参加していたかどうかは分かりませんが、日向松について少し謎が解けてすっきりしました。